【全文公開】佐藤浩市が語る 名優の原点…映画の力を信じて「まだまだ若い人には負けたくないから」

’80年に俳優デビューし、今年で45周年。10月31日公開映画『てっぺんの向こうにあなたがいる』や現在放送中の日曜劇場『ザ・ロイヤルファミリー』に出演。芸能界随一の存在感とキャリアを誇る

″三國連太郎の息子″として…

「よく意外だと言われるけど、仕事がなかった時期もあるんです。28歳ぐらいの頃かな。食えないからバイトをしようとしたら事務所の社長に止められて、代わりに貸してくれた20万円で家賃や生活費を賄(まかな)った。辛い時もあったけど、それでも役者を辞めようと思ったことは一度もありません」

力強い言葉で揺るぎない情熱を滲(にじ)ませたのは、俳優の佐藤浩市(64)だ。19歳の時にドラマ『続・続 事件 月の景色』(NHK)でデビューして以来、芸歴は45年を誇る。

映画だけでも130本を超える作品に出演し、『忠臣蔵外伝 四谷怪談』(’94年)と『64—ロクヨン—前編』(’16年)で2度の日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞。現在も多い時は年間で約10作品に出演するなど、存在感は増すばかりだ。

日本の芸能界を代表する名優と呼んでも過言ではない。そんな佐藤が役者として走り続ける人生の原点は、幼い頃に父・三國連太郎(享年90)に連れられて訪れた撮影現場にある。

「家にはほとんどいない人だったけど、撮影所にはよく連れて行ってくれました。スタジオがいくつも並んでいて、たくさんの人が一つの作品を作り上げていく光景は今も鮮明に焼き付いている。

役者の仕事は伝承芸能ではありません。一人の人間として人生の道を選んでいくなかで、小さな頃に映画の世界を肌で感じられたことは三國に感謝しています」

年間500本もの邦画が制作されていた’60年代、活気に満ちた撮影現場は佐藤少年の心を揺さぶった。その一方で、″自由に生きる怪優″の息子という立場に息苦しさを感じることもあったと回顧する。

「周りの大人たちはみんな僕の父親が誰か――ということを知っているから、常に″役者の子″として色眼鏡で見られました。友達の親や近所の人に『お父さんが帰ってこなくてかわいそうね』などと同情されても、心の中では『ざまあみろ』とやっかんでいるのが子供なりに読み取れてしまう。だから、自ら役者になりたいと口に出すことはなかったですね」

佐藤が小学5年生の時に三國と母親は離婚。その際に三國は、佐藤を十国峠(静岡県)に連れて行き、「ここで君と別れる。今日からは他人だ。これからは一人で一生懸命生きてくれ」と伝えたことを後にテレビで語っている。しかし、佐藤の心の奥に灯った役者への炎が消えることはなかった。そして、この頃から一人で映画館に通うようになる。

「小学校に上がった頃からテレビで放映される映画を観るようになりました。でも、ビデオなんてない時代だから過去の名作を観るには二番館、三番館……いわゆる名画座に行くしかない。そこで小遣いを握りしめ、バスに乗って新宿や池袋の映画館に通うようになった。

初めは『ウエスト・サイド物語』や『ベン・ハー』といった洋画を観てスケールの大きさに感動していたけれど、中学に入った頃から自然と邦画の世界に入っていった。自分の中で映画というものが憧れからリアリティを伴うものに変わっていったんだと思います。

有名映画監督である黒澤明さんや内田吐夢さんの作品はよく観ました。三國主演の『飢餓海峽』(’65年)を初めて観たのは、今年の7月に閉館した銀座・丸の内TOEIのリバイバルだったなぁ」

高校2年の時に実家を出て一人暮らしを始め、卒業後は映画科のある専門学校に進学。在籍中にデビューを果たすと、翌’81年に『青春の門』に出演してブルーリボン賞新人賞を受賞する。早くも頭角を現した佐藤は″二世俳優″として注目されるが、本人の心境は意外なものだった。

「当然、反発心はありましたよ。同じ世界に入ったことで″三國連太郎の息子″という視線はより強くなった。おそらくその恩恵もあったと思うけど、どこにいっても三國の話をされるのがわずらわしくて……口に出すことはなかったけど、態度には出ていたと思います」

そんな佐藤に世間は「生意気」だというレッテルを貼り、親子の確執が囁(ささや)かれた。しかし、親子仲はけっして悪かったわけではないという。実際、20代終わりの苦しい時期を脱するきっかけは、三國と一緒に阪本順治監督のデビュー作『どついたるねん』(’89年)を観に行ったことだった。

「三國が来ているということで、会場にいた阪本さんが挨拶にいらしたんです。そこで意気投合して仲良くさせていただくようになり、阪本さんが監督・脚本を務める映画『トカレフ』(’94年)への出演がのちに決まった。

僕が演じるのは幼児誘拐殺人犯。予算の問題で撮影が1年止まってしまうようなアクシデントもあったけど、その分、殺人犯の狂気に深く向き合えた。

実は、興行的にはあまりよくなかったんです。それでも『佐藤浩市はこんな演技もできるのか』という評価をいただいて、次第に仕事のオファーが入るようになりました」

幼い頃、父・三國連太郎に連れられて訪れた撮影現場が役者人生の原点。当時は大人への反発心があったと回顧した

視聴者を裏切る″役作り″

実績を重ね、いつしか″二世″と呼ばれなくなった。しかし、役者・三國連太郎の存在は常に感じていたと振り返る。’04年放送のNHK大河ドラマ『新選組!』に出演した時もそうだった。

「脚本を手掛ける三谷幸喜さん(64)から『芹沢鴨をやってくれませんか』と言われた時に、僕の中に浮かんだのが’69年に三船プロダクションが制作した『新選組』で三國が演じた芹沢鴨です。

芹沢といえば乱暴狼藉をはたらく粗野な人間というイメージですが、三國の芹沢は非常に不器用な人間臭い男で強く心に残った。そこで文献を調べてみると、家柄が良く教養もあって、子供たちに読み書きを教えるような人物だったんです。それが、近藤勇にコンプレックスを抱いて横暴になっていく。

その話をしたら三谷さんも観ていて、『だから僕を指名したんだな』って思いました(笑)。僕も三國のようにただの悪役ではなく弱さを表現したいと伝え、やらせてもらいました」

佐藤が演じた芹沢鴨は短い出番でありながら視聴者に強い印象を残した。「自分は飽き性だから1年も同じ役を演じるなんて無理。3ヵ月で死ぬぐらいがちょうどいい」と笑うが、芹沢役で手応えを感じて以降は実在した人物を演じる際のアプローチが変化したという。

「今年放送されたNHKのドラマ『シミュレーション〜昭和16年夏の敗戦〜』で東條英機を演じた時も、実は周囲の反応を気にする人だったという一面を知って、自分なりに人物像を膨(ふく)らませました。人間は多面的で複雑なもの。イメージ通りに演じるばかりではなく、新しい一面を見せて、良い意味で視聴者を裏切れたらと思いながらやっています」

佐藤が出演する最新映画『てっぺんの向こうにあなたがいる』は、10月31日に公開。本作は女性で初めてエベレスト登頂に成功した登山家・田部井淳子(享年77)の実話を元にした作品で、佐藤は吉永小百合演じる主人公・多部純子を支え続ける夫役を熱演。しかし、この撮影には難しい一面があったと表情をしかめた。

「田部井さんは’16年に亡くなられましたが、ご主人はご健在で映画の撮影現場にもいらっしゃっていました。だから、文献に頼らなくてもリアルな話や気持ちを知ることができます。ただ、リアルを伝えるために時には誇張したり、あえて変えたりするのが演出というもの。ご本人と乖離せず、かといって近づきすぎない、その距離感を掴(つか)むのに苦労しました」

そこで佐藤は、撮影期間中は劇中同様に互いを「お母さん」「お父さん」と呼び合うことを吉永に提案した。

「吉永さんは、僕がこの世界に入った時にはすでに大スターで、夫婦役をするなんて想像すらしなかった大先輩。しかし、達観することは一切なく、常にフラットな目線で役と向き合っている方で、自分の提案も快く受け入れてくださいました。僕が支えているようで実は彼女に支えられている、そんな夫婦の絆を育(はぐく)めたように思います」

同作品では著名な母と比べられることに反発する息子の様子も描かれる。やがて葛藤(かっとう)を乗り越え、最後は母と子が共に富士山を登るシーンも見どころだ。

時を遡(さかのぼ)ること29年――佐藤と三國親子は、『美味しんぼ』(’96年)で演じた″親子役″が話題となった。しかし、共演回数は少ない。それもまた不仲説が流れた理由の一つだった。

「僕たちは一緒にやるならこの監督だ、この作品だ、と自分たちで勝手にハードルを上げていたんです。その結果、一緒にやる機会を失ってしまっていた。『美味しんぼ』で共演できたのはよかったけど、三國が元気なうちにもう1〜2本やっておけばよかったという後悔はあります。

だから、僕と同じような環境にいる役者には『ハードルを高くし過ぎると後悔するぞ』と伝えているし、僕自身も息子と共演したいと思っている。共演が糧(かて)になるかは人それぞれだけど、同じ道を選んだ以上はお互いを見ておくべきだと思うんです」

佐藤自身も息子の寛一郎(29)が幼い頃から映画の撮影現場を見せていた。高校卒業後にデビューした寛一郎は、佐藤も出演したNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(’22年)で源実朝を暗殺する公暁を好演。かつての佐藤のように、″二世″の肩書にとらわれない、俳優としての道を歩いている。

夫人の提案で始めたこと

佐藤は今年12月に65歳を迎える。『てっぺん……』では登山ロケを行い、ボクシングに人生を懸ける男たちのヒューマンドラマ映画『春に散る』(’23年)では、老年の元ボクサーとして軽やかなフットワークを見せた。多彩な役を演じるうえでの身体作りも気になるところだ。

「普段からジムでトレーニングなどはしていません。ただ、少し前に仕事をご一緒した丘みつ子さんが、77歳とは思えないほど所作に無駄がなく美しいんです。聞くと、1週間に7〜8㎞走っているそうで、日頃の積み重ねが大事なんだと感じました。

そう考えると、僕にとってはゴルフの存在が大きい。多い時は年間100ラウンド近くやっていたし、今も週に一度はゴルフ場に行きます。昔に比べたら体力の衰えは感じるけど、まだまだ若い人に負けたくないから70歳までは250ヤード飛ばしたいと思ってやっている。仕事も同じで、負けないぞという気持ちは常にあります」

共演してきた若い役者たちについては、「自分の若い頃よりはるかに真面目ですね」と語る。

「先々のことまでビジョンを持って取り組んでいる子が多くてすごいなと驚きます。自分が若い頃はそんな先のことを考える余裕なんてありませんでしたから。一作一作に集中していた……といえば聞こえはいいけれど、目の前にあるものに明かりを灯すことで精一杯だった。たとえ自分がいなくなっても、その映画が残るならそれでいいと思っていたしね。

でも、現実は違った。しっかり管理しなければフィルムが劣化してしまうように、映画は人々に観られなければ廃れていくんです。実際、『昭和30年代の映画をよく観ます』なんていう20代の若者にはまず会わないですからね。いま光り輝く映画もいつかはロウソクの炎のように燃え尽きてしまう。

ただ、最近はそれでいいんじゃないかって思っています。その瞬間に観てくれた人たちに勇気を与えたり、時には命を救ったりできるのが映画の力ですから」

一方、俳優業以外にも力を注いでいることがあると明かした。’93年に結婚してから時間をともに過ごす夫人と、’18年頃から乳児院や児童養護施設の子供たちを週末や夏休みに預かる″里親制度″に取り組んでいる。もともと児童養護施設などでボランティアをしていた夫人の提案で始めたもので、これまで20人以上の子供たちと関わってきたという。

「さまざまな事情を抱えた子供たちですが、それでも前向きに頑張ろうとする姿にこちらが気づかされることも多い。自分もまた周りに支えられていることを実感しています。

僕なんか、カミさんがいなかったらどうなっちゃうんだろうって思いますから(笑)。自分の隣にいる人に感謝の気持ちを持って日々を過ごすこと。その積み重ねが自分の生き方にかえってくると感じています」

驕らず謙虚であり続ける――佐藤浩市はまさに″名優″の鑑(かがみ)と呼べるだろう。

「勇気を与え、時には命も救う。それが″映画の力″であり、僕の仕事です」 ’23年に開催された『第15回TAMA映画賞』楽屋での貴重な一枚。準備中の一分一秒も無駄にしないプロの姿勢
どんな相手にも真剣に耳を傾けるのが佐藤流。作品への順応力と演技力で、上記映画賞で最優秀男優賞を受賞
先輩俳優・原田芳雄の影響を受け、’12年頃から俳優業の傍ら歌手活動を開始。定期的にライブも開催している
’21年には宇崎竜童&木梨憲武を迎えた新曲「Shut Up!!」を配信。同年のライブで豪華コラボレーションを披露した
普段の上品なイメージとは裏腹に、ステージ上ではポップな一面も! さまざまな表情でファンを魅了し続けていく
柔らかな微笑みに深く刻まれたシワは、紳士そのもの。同世代だけでなく、若者世代にとっても〝道標〟のような存在だ