生放送中にブチキレ→そのまま番組を降板…西村賢太の“爆発事件”をテレビで見ていた恋人がおそるおそるメールした“感想の言葉”とは

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〈〉から続く

 2022年2月5日、私小説家のさんが54歳でこの世を去った。それから数年後、かつての恋人が「けんけん」こと西村さんとの関係について綴る決心をしたのは、彼のこんな言葉に背中を押されたからだった――「自分の人生に責任、持てよ」。

【画像】さんが亡くなった後、元恋人・小林麻衣子さんの元に戻ってきたという西村さん宛ての手紙を見る

 ここでは、西村さんが亡くなるまで個人的な付き合いがあり、5年弱の半同棲期間を共に過ごしたという小林麻衣子さんの『殺人事件』(飛鳥新社)より一部を抜粋してお届けする。世の中をざわつかせた『ニッポン・ダンディ』突然の降板事件。その時、恋人は彼になんと言葉をかけたのか?(全3回の2回目/続きを読む)

 ©文藝春秋

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「ダイアモンドユカイって奴と一緒にやんだよな」

 牡蠣のシーズン中から私は、毎週けんけんの出ている番組『ニッポン・ダンディ』(TOKYO MX)を見るよう言われていた。

「ダイアモンドユカイって奴とよ、一緒にレギュラーやんだよな。知ってっか?」

 知っているも何も、4半世紀前から知っている。ユカイ君は、中2の私が『ROCKIN’ONJAPAN』の切り抜きを下敷きに挟んでいたロックシンガーである。授業中にウットリ眺めていたアーティストである。これ以降、ユカイ君は私たちの共通の知人(仮)になったのだが、けんけんからユカイ君のいたバンド、RED
WARRIORSについて、メンバーのキャラやらバックグラウンドについてお聞きになった方がいらっしゃったら申し上げたい。それらは間違いなく全部、私由来の受け売りである。

「お前、俺の仕事関係の人なんだからよ、“さん”付けで呼べよ。失礼だろ、“君”とか」と言われたが、私は曲げなかった。ユカイ君は永遠にユカイ君(24)である。2019年の年末には「ユカイくんが紅白に出るから観てやってくれ」とメールが来た。

『日乗 這進の章(18)』には亡くなる直前の2021年11月12日に「深更に届いていた、ダイアモンドユカイ氏からのメールを読み返す。今でも気にかけてくださる、熱き人」とあって、没後これを読んだ私を泣かせた。玉袋筋太郎氏とも傍流弟子であったオールディックフォギーの伊藤さんとも仲違いをしたきり没交渉だったのを知っていたからだ。

突然の降板、かけた言葉は…

 さて、その『ニッポン・ダンディ』だが、

「でもこっち、映んないんだよね、チューナーがないと(どうせそのうちYouTubeで見られるし)」

「はぁ? お前よぉ、ファンなら見るだろよ、普通」

 という訳で、ひかりTVとやらのチューナーを、キャンペーン中につき運よく無料でレンタルして、毎週「今日テレビだね」だの「今、テレビの前にいるよ~」「頑張ってね~」だのと、頭の悪そうなメールを送っていたのである。

 牡蠣のシーズンが終わり、またも無職に戻った私は、実家周辺の山中をジョギングし、姪っ子を保育園にお迎えに行き、晩ご飯を作り、こうしてけんけんにメールをするのが主たるタスクの、御三度の飯炊き女であった。

 けんけんが、その生放送の番組を収録中にブチ切れて降板したのは、そんな、とある週のこと。あんなは生まれて初めてで、文字通り早鐘の動悸がした。もう、一体何と次のメールをしていいものやら分からない。かといって、見なかったことにもできない。わなわなする手で打っては消し、打っては消しして、どうにかこうにかやっとこさ送ったのが、「白いジャケット、似合ってたね」だった。

 その後確か2時間以上して、「やめてきた」とだけ返信があった。この降板事件については、本人が『日乗』やその他の随筆で色々と何やら理由めいたことを書き散らしている通り、確かにスタッフや司会者に軽んじられているように感じはしていたのだろうが、結局のところは単に癇癪玉を破裂させてしまったのだろう。感情がコントロールできなかったというだけのことだろう。本人もそれをよく分かっていたと思う。だから、その後付き合っている時も、気の毒で、こちらからこの話題に触れたことはなかった。

深夜2時に突然の電話で「ケンカした」

「瞬間湯沸かし器」という言葉があるが、私は「瞬間火吹達磨!」と思っていた。導火線は無いに等しく、一瞬で発火点に達する、そして何とか、何度か、自分を抑え込もうとする、その理性と怒りとの摩擦が、どうにもこうにも、却って爆発的な破裂、発火、火を吹くに至らしめる。いつもこんな感じ。あ、我慢しているな、と思ったらもう手遅れで、結果は既に見えていた。そして、相手も場所も選ばない、というか選べない。相手が芸能人だろうが、テレビカメラが回っていようが、不可避である。擁護は一切しないが、それが所謂DVとはちょっと違うところだと思っている。

 同じ年の後半には、深更2時過ぎの電話で叩き起こされた。

「もしもし?」

「○○○○○とケンカした」

 今でも私の耳の中にある、ポソポソと濡れそぼった11音。水底から弱々しく浮いてきた気泡が破れるような声だった。

 寝起きで訳が分からないながら、あの体のどこからこんな声が? と、そのションボリっぷりに笑いそうにもなりながら、しかし、思わず「なんで?!?」と言ってしまえば追い詰めてしまうと思って必死にググッと避けて、

「大丈夫? ケガとかしてない?」

「……」

「???」

「……うるせえッ」ガチャン。

「……( 何なん、一体!?)」掌のスマホを寝呆け眼で見つめながら「他に電話できる人、いないんだ……」と思った。

 こういうことのあった2013年だが、年末が近づいてくると、「岡山へ行ってみたいんよ」「行ってもいいかい?」などというメールが来るようになった。

 ちょうどその頃、懲りない私は派遣社員をしていて、そのため実家ではなく派遣先に近いマンションに一人でいた。だから当然、「いいよ」と返した。

 の読者なら、彼が秋以降釣瓶落としに日が暮れるようになると寂しくて堪らなくなることや、正月休みは1人ぼっちですることもなく死んだフリをキメこんでいることは、当然知っている。そしてそれは、私自身も似たようなものだった。毎年9月になると、夕暮れ時、泣きたくなる。40目前で、同級生や会社の同期が皆結婚して子育てに勤しんでいるというのに、室内で座れない私に、茶飲み友達すらいようはずもなかった。

 一度でいいから、里帰りとやらをしてみたい。職場で義実家への愚痴なぞこぼしてみたい。お弁当、いやコンビニのパンでいいから、慌ただしくて構わないから、談笑しながら食べてみたい。だから当然、「いいよ」と返した。この私に、お正月休みに予定があるなんて、何年振りのことだったろう。

〈「あんたでええわ、あんたで」8畳の和室に布団を敷いて“大いびき”を…かつての恋人が明かす、が岡山で過ごした“同棲生活”の始まり〉へ続く

(小林 麻衣子/Webオリジナル(外部転載))