
「軍人らしくやりたくない。武人であったと同時に文人」
数多くの映画や、舞台、ドラマで活躍し、私塾「無名塾」を設立して役所広司(69)などの俳優を育て、生涯反戦を貫いた俳優の仲代達矢さんが11月8日、肺炎のため92歳で亡くなった。
1979年9月、仲代さんが舛田利雄監督の『二百三高地』に乃木希典陸軍大将の役で主演した時に、伊豆大島で行われたロケ現場でインタビューしたことがあった。
『二百三高地』は、日露戦争(1904~05年)での乃木大将率いる日本軍による旅順攻略を描いた戦争大作。伊豆大島で激戦シーンが撮影された。
軍服姿に白い髭を蓄え乃木大将の扮装をした仲代さんは、
「メーキャップには2時間かかっていたけど、今は1時間でできるようになった。幸いあらゆる角度からの乃木大将の写真があった」
という。
「ドラマは約1年間を描くもので年齢的な変化はないが、3段階に変化するんです。普段の淡々としている乃木大将、戦争の極限状態での乃木、そして戦争に勝って天皇陛下(明治天皇)に御前報告するときに、戦死した部下を思ってぶるぶる震えだすときの凝縮されたドラマ。髭も3種類にしようと思っているんです」
と仲代さんならではの繊細な役柄の分析と徹底した役作りをうかがわせた。
「いろんな先輩が乃木さんをやっているので、僕としては軍人らしくやりたくない。武人であったと同時に文人。軍人らしくなく少し猫背にして、なるたけ小さく見えるようにしている。全体的には静かな性格としてね」
と独自の乃木大将像にこだわりを見せた。
『二百三高地』に入る直前には、『影武者』(黒澤明監督)の撮影が始まっていた。武田信玄とその影武者の2役。勝新太郎さんに決まっていたが、同年6月にクランクインして間もなく、黒澤監督と対立して降板。急遽、仲代さんが代役に起用された。
「大事なところを6シーン撮りました。『影武者』のタイトル前のトップシーンです。武田信玄と影武者と、弟の武田信廉(山﨑努)の3人が出てくるんですが、3人とも似ていて非常にミステリアスなシーン。それと武田の屋敷で側室と酒盛りするシーンも撮りました」
と明かした。
仲代さんは、1952年に俳優座の養成所に入所し、黒澤監督の『七人の侍』(1954年)にセリフのないエキストラとしてノンクレジットで出演し、これが映画デビューとなった。
その後『用心棒』(1961年)に三船敏郎さん演じる桑畑三十郎の敵役という準主役で出演。その続編的作品『椿三十郎』(1962年)では三船さん演じる椿三十郎とラストで壮絶な決闘をする室戸半兵衛役で出演した。そして『影武者』は『天国と地獄』(1963年)以来16年ぶりの黒澤作品だった。
確固とした戦争否定の立場
「(黒澤監督は)相変わらず意気は衰えていないという感じでした。撮影が始まり、勝新太郎さんのイメージは完全に抜けました。単なるピンチヒッターでは済まされない。仲代だからできたというものをやりたい」
と意気込みを語っていたのが印象的だった。
仲代さんは武田信玄とその影武者を見事に演じ切り、『影武者』は第33回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ド-ルを受賞。第23回ブルーリボン賞で作品賞、仲代さんの主演男優賞、織田信長を演じた隆大介の新人賞を受賞。配給収入27億円で‛80年の邦画配収1位を記録して興行的にも大成功を収めた。
仲代さんは、12歳のころ東京大空襲で逃げ回った悲惨な経験から生涯反戦を貫いたことでも知られる。仲代さんをスター俳優にした小林正樹監督の『人間の条件』(1959~61年)は“反戦映画の金字塔”といわれた。全6部構成で2部ずつ上映され、上映時間は計9時間31分の超大作だ。
1943年、仲代さん演じる主人公の梶が、妻の美千子(新珠三千代)とともに南満州鉄鋼会社の社員として満州の鉱山に赴任するところから始まる。日本軍の現地管理者による中国人労働者の非人道的な扱いを目にして人道的な改革を訴えるが、軍の反発を買い弾圧される。
その後、関東軍に配属されて理不尽と暴力に苦しみながら、ソ連軍の参戦でソ連軍の捕虜となる。捕虜収容所では日本人同士の暴力、裏切りにあい、脱走してシベリアの荒野をさまようまでの壮絶な運命と、その中で最後まで戦争に同化せず、正義、人間の尊厳、ヒューマニズムを貫こうとする梶の人生を描く感動作だった。
仲代さんは、自伝的随想集『役者 MEMO 1955-1980』(小池書院)の中で、
〈僕は梶からたくさんの贈り物を受けた。それにむくいる方法は一つ、確固とした戦争否定の立場と、人間の尊厳を、僕の演じる梶を通して、できるだけ多くの人々に伝達することのほかにはない〉
と梶と反戦の想いを綴っている。
『人間の条件』は今も色あせることはない。戦後80年、世界で戦争はなくならず、「集団的自衛権」の問題を巡って日中で波紋を広げる中、同作が訴える反戦ヒューマニズムの意義は一層高まっているのではなかろうか。
小林監督は
「彼こそまさに天才。日本人の枠を超えた役者」
と仲代さんを絶賛し、『切腹』(1962年)、『怪談』(1964年)、『上意討ち』(‛67年)など相次いで映画に起用。また黒澤監督をはじめ、豊田四郎監督(『四谷怪談』1965年)、岡本喜八監督(『大菩薩峠』1966年)、山本薩夫監督(『華麗なる一族』1974年、『金環蝕』1975年)、市川崑監督(『吾輩は猫である』1975年)など名匠が競って仲代さんを起用したことでも知られる。
役者として演技にこだわり、最後まで現役を貫き、数々の映画や舞台、ドラマで観客を魅了し、反戦を貫いた仲代さんは、俳優として大きな足跡を残した名優として語り継がれる。