Author: d3001

キスマイ・宮田俊哉 麗しいコスプレ姿 ファンの声を具現化 白い髪にメンバーカラー紫基調の衣装で登場

26 October 2025

 Kis-My-Ft2の宮田俊哉(37)が25日、東京・池袋エリアで開催中の「池袋ハロウィンコスプレフェス2025」にスペシャルゲストとして参加。麗しいコスプレで会場を沸かせた。  白い髪にメンバーカラーである紫を基調とした衣装は、コスプレ情報誌「COSPLAY MODE」(25年10月号)の表紙を飾ったオリジナルキャラ。SNS上でアイデアを求め、ファンの声を結集させ具現化させたというが「ちょっとブーツで身長がかさ増しされていて『みんな、俺にはもう少し身長高い方が好きなんだな』と学びました」と苦笑いだった。  その後はランウェイを歩いてポーズを決め、周辺のパレードにも参加。「会場に来てくださったファンの中にもイベント初参加がいるかもしれないですが、楽しんで」と呼びかけた。

《高校を卒業したらお茶畑を手伝え》大学選手権4連覇の中西学、新日本プロレス入りに大反対した父との「現在の関係」と「これからの夢」

26 October 2025

2020年に引退した元プロレスラーの中西学さん 写真一覧 1989年から全日本レスリング選手権大会4連覇、1992年にバルセロナ五輪フリースタイル100kg級出場と、鳴り物入りで新日本プロレスに入門した中西学さん(58)。レスリングのエリートコースを歩んできたと思いきや、中西さんは中学生まではレスリング未経験だった。中学時代、通信簿に最低評価である「1」がズラリと並んだ問題児が、新日本プロレスのIWGPヘビー級王者へと成り上がるまでの半生を語った。【前後編の後編。前編を読む】 ──ご出身は京都でご実家はお茶農家だったそうですね。 「京都の宇治で産まれ育ちました。地元のお茶農家の三男で、現実を見ないで空想ばかりしていたからか、親は僕を『外に出したらいかんな』と言って、中学を卒業したら実家の茶畑を手伝えって感じでした」 ──レスリングを始めたきっかけはなんだったんですか? 「昔は通信簿と言いましたけど、中学の頃は図工が3、体育が2、それ以外すべて1という成績だったこともあって、酷いものでした。このままじゃダメだなと思って1回だけ努力してみようかなと思ったんですよ。 中学3年生の2学期は、先生から特別課題とかを出されたりして、提出物をちゃんと出すようにしたんです。それで、音楽だけは2やったけど、あとはなんとかオール3を取れた。先生に頼み込んでね(笑)」 ──中学生ながらに考えて現状を打破しようと思ったんですね。 「たまたま志望していた地元の高校にレスリング部があって、何も考えずクラスメイトのみんなに『高校に入ってレスリングやってオリンピック目指すんや』と言い出していた。とんでもないやつですよね。それまでレスリングもスポーツもやったことないのに」 ──努力の末、無事に第一志望だった宇治高等学校(現:立命館宇治高等学校)に入学。レスリングと出会いました。 「当時は京都府内でレスリングをやっている高校が3校あったんですけど、だいたい母校が府の代表になることが多く、近畿大会や全国大会まで進むので、練習は学校内でもいちばん遅くまでやってたんじないですかね。午後3時半くらいから夜8時くらいまで練習をしていました」 ──のちに全日本レスリング選手権を4連覇する中西さんはそこから“覚醒”した。 現役引退から5年、現在は愛知県で仕事をする中西さん 写真一覧 「父親からはずっと『レスリング部辞めろ』って言われていて、『高校を卒業したら、茶畑手伝えよ』と。そしたら、高校最後の大会で全国2位になれて、当時は西日本より東日本の方がレスリングのレベルが高く、長州さんの母校である専修大学にも声をかけてもらったので、大学に行かせてもらえたんです」 ──大学の時に才能が開花して、数々の好成績を残されています。 「大学の最後の大会でインカレと大学選手権というのがあるんですけど、『グレコローマンスタイル』と『フリースタイル』という2つのジャンルで優勝して、タイトルは4年生の時にすべて取れたんです。 プロレスラーにはもちろんなりたいけど、レスリング最高峰の五輪に出場したいと思い、長州さんにスカウトされて新日本プロレスのアマチュアレスリング部門である『闘魂クラブ』に入団して、1992年のバルセロナ五輪に出場しました」 ──1992年に憧れだった新日本プロレスに入団。セルリアンブルーのリングでデビューしました。 「デビュー戦は今でも覚えていますね。道場の“ちゃんこ鍋”が美味くて、たくさん食べていたからか、身体もいつの間にかゴツくなっていたんですけど、デビューしたてで受け身も上手くない。当初はヘッドギアをつけて、アマチュアスタイルの感じでやらせてもらったんですけど、まあ酷いもんでした(苦笑)」 同期の永田裕志選手、同世代の天山広吉選手、小島聡選手と切磋琢磨してきた 写真一覧 ──ご家族の反応はどうでしたか。 「兄はプロレスファンでしたけど、父親は大反対で家業を継いでほしかったと思います。それでも『頑張ってるんで応援してやってください』と、いつもいろいろな人に頭を下げてくれていたみたいです。地元の試合や引退、復帰の時も駆け付けてくれたし、父はいつも心配してくれて、親身になって守ってくれていました」 ──同世代の天山広吉選手(54)、小島聡選手(55)、同期の永田裕志選手(57)とはどういう関係だったんですか? 「ライバルではありますけど、あの2人(天山、小島)と僕は同じタイプやから、スタイルは違うけどパワー勝負になってしまう。もっとレスリング的な動きを取り入れればよかったんですけど、自分で“プロレス”にこだわりすぎたところもありました。 そういう意味で、永田が加わってタッグ戦で天山選手・小島選手チームと戦う時は、僕は永田の手のひらに乗せられてやってましたね」 ──現役生活28年、2020年に現役を引退して5年が経ちました。今の心境はどうでしょうか。 「厳しい世の中で生きていくには、やっぱりできることを少しずつやっていくしかないです。簡単にはできないとは思うんですけど、それでも、与えられた仕事は一生懸命やって、正直に生きていかなければならないと思いますね。ごまかして通用するような時代じゃないんで、自分の若い頃のように『なんでも後回しにしないでやっていかなあかんぞ』っていうことを伝えていきたいです」 ──今、中西さんが思い描いている夢はありますか? 「僕ら子どもの時にプロレスに夢と希望を与えてもらいました。僕が幼稚園の時は、夜8時からテレビで新日本プロレスが放送されていて、その時に日本人選手が外国人のレスラーに血だらけにされていました。“これは酷い、大人になったら仕返しするしかない”、そう感じていた自分の夢は叶いました。今度は僕がアマチュアの子どもらにレスリングを教えながら、夢や希望を与えられたえらなって思います」 (了。前編から読む) 文/千島絵里香(ジャーナリスト)…