「“穴持たず”を見つけたら、ためらわずに撃て」猟師の間で言われている「冬眠しない熊」との対峙方法《戦前の日本で発生した恐怖のヒグマ事件》

全国でクマによる被害が相次いでいる(AFLO/時事通信フォト)

全国でクマによる被害が相次いでいる(AFLO/時事通信フォト)

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11月11日、秋田市の民家で犬小屋を引きずる熊が目撃された。そこで飼っていた犬はいなくなっていたという。12日未明には宮城県内で走行中の乗用車と熊の衝突事故も起きた。連日報道されている日本全国での熊の出没事件や襲撃事件。すでに多数の犠牲者が出ており、その数は過去最悪レベルとなっている。

かつての熊は山間部でひっそり暮らし、山へ分け入ったキノコ狩りをしていた人や猟師が襲われるというケースが多かったが、昨今は住宅地や市街地に熊が出没することが多い。それだけ熊の生態が変化していると見ることもできる。

一方で歴史を紐解くと、昔から熊が人間の居住地を襲う事件が発生している。近現代の熊被害をまとめた別冊宝島編集部編『アーバン熊の脅威』から、戦前に発生した3つの熊襲撃事件を紹介する。(一部抜粋して再構成)

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複数の熊が長期間にわたって一つの地域を襲う

【瀬棚村人喰い熊事件】
発生年月日:1888~1910年
発生場所:北海道瀬棚村(現・せたな町)
犠牲者数:死者2名、重傷者9名以上
熊種:ヒグマ

北海道・渡島半島の日本海側に位置する瀬棚村では、人喰い熊による殺人や傷害事件が頻発していた。とくに被害の目立った明治時代の中頃から後半にかけては、少なくとも死亡2人、重傷者9人が確認されている。

たとえば1896年は、一人が喰い殺され、3人以上が負傷した。初秋の9月、農家の夫婦が子供を連れて歩いているところに、大型の母熊が子熊を連れて現れた。夫は逃げる途中で足を取られて転倒し、大腿を爪で裂かれ、妻も脇腹に重傷を負った。

この事件について当時の『北海道毎日新聞』は「子供は幸い無事だったが、妻は急所の重傷なので助命は覚束ないとの話」と伝えているが、その後の記録を見たかぎりでは死亡は確認できず、なんとか命は取り留めたものと思われる。

この事件から日をおかず、今度は自宅周りで作業をしていた男性が、近くのやぶに隠れていた熊に捕まって連れ去られてしまう。これを見ていた近所の男性たちが追跡すると、熊は逃げ去っていったが、被害に遭った男性は頭部と背中を引き裂かれた状態でやぶの中に放置され、絶命していた。

この熊は、その後も村の近くに居座って馬を襲うなどしていた。農民の一人が馬小屋にいるのを見つけたので、村人たちは金ダライを打ち鳴らすなどして追い払おうとしたが、熊はまったく怖れる様子を見せず、殺した馬を肩に担ぎながらやぶの中へ戻っていって、ゆっくりと馬肉を喰らっていたという。

この村を開いた幕末の会津藩士・丹羽五郎は、熊出現の報告を受けると愛用する銃を携えて現場へ急行し、見事にこの熊を撃ち倒した。村民たちは丹羽の快挙に万歳を唱え、村まで熊を担いでいって熊料理をこしらえ、食したという。

幕末の会津藩士だった丹羽五郎は、瀬棚村人喰い熊事件発生当時、北海道開拓団として入植していた

幕末の会津藩士だった丹羽五郎は、瀬棚村人喰い熊事件発生当時、北海道開拓団として入植していた

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1905年4月には、笹を刈りに出かけた青年が熊に捕えられた。一度は仲間たちが火を焚いて追い払ったものの、再び現れた熊は、瀕死状態の青年を仲間が運ぼうとするところを奪って喰い殺してしまった。

同じ年の11月には、墓地に埋葬された直後の死体を掘り出して、内臓を喰らう熊の姿も見られている。特定の個体だけでなく多くの熊たちが長期間にわたって人肉食を続けたのは、全国的にもかなり珍しい事例で、その後1910年にも死者こそなかったものの2か月間に4人が襲われる事件が起きている。

蝦夷鹿の生息数が多い網走、釧路、根室などの道東では、冬眠をせずにエゾシカを捕食しながら越冬するヒグマも出現している

蝦夷鹿の生息数が多い網走、釧路、根室などの道東では、冬眠をせずにエゾシカを捕食しながら越冬するヒグマも出現している

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冬山を下りた飢餓状態の熊が人里をうろつき回る

【民家襲撃事件】
発生年月日:1875年12月8日
発生場所:北海道虻田郡弁辺村(現・豊浦町)
犠牲者:死者1名、重傷者2名
熊種:ヒグマ

死者3人、重傷者2人の被害が出た札幌丘珠事件。これが起こる3年前、1875年12月8日には、洞爺湖やニセコ町で知られる虻田郡でも、ヒグマが民家に侵入する事件が発生している。

熊は、この家に仮住まいしていた1人を咬殺すると、同家の長女など2人に重傷を負わせたのちに銃殺されている。

この事件で注目すべきは発生した日時で、12月というと普通の熊は冬眠に入る時期である。それが民家にまで侵入して暴れたということは、冬を過ごすだけの栄養をまだ蓄えることができていなかったものと思われる。

熊は冬眠中に体重の30%から50%の脂肪を消耗するといわれ、入眠前にはその分を体内に蓄えておかなければならない。脂肪が足りないと体温が下がり切らず、眠りにつくことができない。それで巣穴の外に出て、いわゆる「穴持たず」になってしまう。穴持たずとは文字通り、寝床の穴を持たない熊をいう。

餌の少ない冬場に外をうろつく穴持たずは、基本的に飢餓状態であるため狂暴化する。さらには寝ていないために判断力が鈍った状態で、誰彼なしに襲いかかかってしまう危険がある。猟師の間では昔から「穴持たずを見つけたら、ためらわずに撃て」とも言われている。餌を探して民家を襲うこともたびたびあったようで、日本最悪の熊害となった三毛別羆事件も穴持たずの仕業だった。熊の出現が多い地域だと、冬場でも穴持たずを警戒して、熊の侵入を防ぐための電気柵や有刺鉄線の設置を怠らないという。

アーバン熊の増加に伴ない、今後は市街地でも穴持たずが現れることは十分にありえるだろう。

魚が釣れやすい人気の釣り場は、熊にとっても大事な餌場であるため、熊害が起こりやすい

魚が釣れやすい人気の釣り場は、熊にとっても大事な餌場であるため、熊害が起こりやすい

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大正時代の15年間で12人が犠牲になった熊害の多発地帯

【美瑛釣り人襲撃事件】
発生年月日:1925年6月18日、9月21日
発生場所:北海道美瑛村
犠牲者数:死者3名
熊種:ヒグマ

美しい風景が広がる北海道の美瑛町(びえいちょう)。今では人気の観光地だが、かつてはヒグマによる人身被害が多発する危険地域であった。

なかでも大正時代の15年間には、美瑛を中心とした半径20キロの内で、死亡者が12人も出ている。

1925年6月には、美瑛村の市街地に住む男性2人が川釣りに出かけたまま行方不明となった。釣り場付近の捜索をしていると、上流の山中から母子連れの熊がこちらを凝視していた。危険を察していったん村に戻り、100名ほどの捜索隊を結成して鳴り物を打ち鳴らしながら捜索を再開した。

翌日になって、村からかなり奥まった山中の川岸に、糸を川面に垂れたままの釣り竿が発見された。そうしてそこからさらに200メートルほど離れた崖の下で一人の遺体が発見される。胴体から上はなく、頭は崖の上にさらし首のようにして置かれていた。遺体の手足はむしり取られ、内臓は喰い尽くされていた。

さらに土に埋められているところを発見されたもう一人の遺体も、両足はなく、顔面は傷だらけで、やはり内臓を喰われていた。

現場の状況からすると熊は不意に後方から2人を襲ったようで、少し離れたところに魚籠が転がり、そのそばにはむしり取られたシャツもあった。被害者2人は必死の抵抗をしたらしく、地面には揉み合いをしたような形跡もみとめられた。

美瑛付近では毎年のように熊が出没し、市街地まで出て来るようになっていたこともあり大々的な熊狩りを計画。機関銃を装備した歩兵隊の派遣まで軍に依頼したというが、これは断られている。

2人を喰い殺した熊は見つからないまま夏が過ぎ、9月21日には美瑛市の男性が山中の川へ釣りに出かけたまま戻らず、翌日、熊撃ち名人と呼ばれた農夫らが捜索にあたった。川辺に焚き火の跡を見つけ、周囲を見渡すと笹が生い茂っている。やぶに向かって捜索隊の一人が石を投げると、そこから仔牛ほどもある巨大な熊が躍り出て、猛然と飛びかかってきた。すかさず発砲して仕留めたが、周囲を探索すると、手足や顔面、内臓を喰い散らかされた男の遺体が大木の根元に埋められていた。

人喰いグマの遺骸を馬車で運搬する途中、一人が熊の背中に馬乗りになったところ、熊の口の中からは前日に食べたであろう人肉が、大量に吐き出されたという。

取材・文/早川満