
2005年、秋元康氏のプロデュースにより「会いに行けるアイドル」をコンセプトとして誕生した。大規模な握手会、選抜総選挙など画期的な手法で一時代を築いたこの国民的アイドルグループの黎明期から最前線で戦い続けた男がいた。元劇場支配人・氏が初めて明かす、激動と奮闘の記録。
連載第7回中編
前編記事『全盛期に「1億円プレイヤー」が何人もいた意外な理由…元劇場支配人が振り返る〈震災復興支援ライブ、あのプライベート写真流出騒動の全貌〉』より続く。
運営側も驚いたの卒業宣言
2012年以降は、メンバーの活動辞退や卒業発表が相次いだ。2月には1期生の平嶋夏海と3期生の米沢瑠美が活動辞退を発表。
11月には、「週刊文春」に自身の記事が掲載されたことを受けて、2期生の増田有華が活動を辞退。そして12月には、2期生の河西智美も卒業を発表している。
運営側にとってはどの子も苦楽を共にしたメンバーだ。理由がどうであれ、去ってしまうのはやはり寂しい。
ただ、をなんとなく知っている世間にも衝撃を与えたという点で、あっちゃん()の卒業は忘れがたい。
「私は14歳のときにのオーディションを受け、初期メンバーとして加入させていただきました。それは、私の人生にとって初めての大きな決断でした。そして、今日ここで2回目の大きな決断をさせてください。私、は、を卒業します……」
あっちゃんが突然の卒業宣言をしたのは、2012年3月25日。さいたまスーパーアリーナコンサートの最終日のことだった。このとき楽屋のモニターでステージの様子をぼんやり眺めていた僕は、あっちゃんの発言を聞いて腰を抜かしそうになった。
「え、なに!?あっちゃん、卒業すんの!?」
運営側の僕でさえ完全に寝耳に水だったのだ。
突然の卒業宣言に激怒していた
秋元康先生やたかみな(高橋みなみ)には少し前から相談していたようだが、あっちゃんの当時の所属事務所だった太田プロダクションすら知らなかったという。
実は、にいたってはこのサプライズに激怒していた。この卒業発表の2日前、同社主催の「沖縄国際映画祭」がスタートしていて、本来なら各メディアにイベントの魅力を伝える記事が掲載される予定だった。それがあっちゃんの卒業ニュースですべて吹き飛んでしまったのだ。「AKBって本当にガチでやってるんすね」と皮肉を言われたのをいまでも覚えている。
思えば、あっちゃんがの1期生になったのは、彼女が14歳のときだった。振り付けの夏まゆみ先生にアイドルとしての可能性を見出された彼女は、その後ファンから圧倒的な支持を得て“不動のセンター”と呼ばれるまでに成長する。
ただ、センターであり続けるということは、並大抵の努力では成し得ない。ライバルの(大島)優子が常に2位に控え、個性豊かな後輩たちも次々加入してくる。想像を絶するプレッシャーとの戦いだっただろう。もしかしたら、トップゆえの孤独も抱えていたのかもしれない。
いずれにせよ、あっちゃんが悩み抜いて下した決断なのだ。ファンも、運営も、そしてメンバーも、誰も彼女の人生を邪魔する資格はない。僕たちにできることは、ただ盛大に送り出してやることだけなのだ。
そんななかで、まずなによりも良かったのは、の長年の目標だった東京ドームコンサートの開催があっちゃんの卒業に間に合ったことだろう。8月27日の卒業ライブ直前、8月24日~26日に念願のドームコンサートを開催できた。
アーティストにとって東京ドーム公演の実現はなかなかハードルが高い。おそらく日本で一番審査が厳しいコンサート会場だろう。会場使用料を払えるだけの資金があれば認められるというものではない。運営元に信頼されて初めて、会場の使用許可をもらえるのだ。
つまり、東京ドームで公演ができるということは、正真正銘のメジャーアーティストとして認められたことを意味する。その記念すべき舞台に、1期生のあっちゃんが立てたのは本当に喜ばしいことだった。
最後まで愛されたトップアイドル
一方、8月27日の卒業ライブも気合いが入っていた。秋元先生も「チケットの最高倍率を叩き出そう」と言って、いつも以上に張り切っていたほどだ。実際、申込期間をできるだけ長めに設けたところ、劇場のキャパシティ250人に対し、応募数はなんと22万5000人以上、チケットの倍率は900倍を超え、過去最高倍率となった。
チケット購入の段階ですでにこの騒ぎだ。ライブ当日の狂騒ぶりも凄まじかった。
劇場が入る秋葉原UDX周辺は、会場入りするあっちゃんを一目見ようと、すでに昼過ぎ頃から多くのファンで混み合っていた。スタッフがトラロープを張って必死で交通整理をするなか、事前に万世橋警察署に要請していた警察官たちが睨みをきかせていた。さながらオリンピック選手の凱旋パレードだ。
当初は劇場でライブを観られないファンのために、あっちゃんの最後の劇場入りをお披露目する予定だったのだが、「大きな混乱が起きかねない」と警察からお叱りを受けて泣く泣く断念。それでも秋葉原UDXの周りには続々と人が集まり続けた。
さすがにあっちゃんも最後なので挨拶をしたいと思ったのだろう。終演後にビルのテラスから顔を出すと、「みなさーん、気をつけて帰ってください。ありがとうございました!」と両手を振っていた。ようやくファンが帰り始めたのは、あっちゃんがビルを出た22時過ぎだった。
何者でもなかった少女が、劇場で才能を開花させ、そして誰もが認めるトップアイドルになった。あっちゃんが紡いだ物語は、まさに始まりの場所で終わりを告げた。
「週刊文春」報道後の峯岸みなみ
ただ、振り返ってみると、あっちゃんの卒業前後は相変わらずゴタゴタもあった。
2012年6月14日には指原莉乃を扱った記事が「週刊文春」に載った。これを受けて指原は、秋元先生にHKT48への移籍を言い渡されている。
いまでこそ、この処分には納得している。しかし当時の僕は指原の一件をうまく消化できずにいた。これまでも男女問題を突かれてを去っていったメンバーは何人もいる。一方、指原は別グループへの移籍だ。
6月6日に行われた第4回総選挙で指原は4位と大躍進した。人気メンバーに成長した彼女をから突然去らせるわけにはいかないという考えも十分理解できる。とはいえ、これまで去っていった者と比べて、ずいぶんと差があるように感じられてならなかったのだ。
大きくなったアイドルグループにはこれまでと違った判断も必要になる。そんな現実を僕はこの件で痛感した。
しかし、難しい問題はこれだけで終わらなかった。
2013年には「週刊文春」に記事が掲載されたことを受けて、峯岸みなみがYouTubeに謝罪動画をアップしたのだ。どうしてもに残りたい彼女が選択したのが、自らの髪を丸刈りにするという方法だった。
この一件はアイドルグループの行き過ぎた恋愛禁止ルールを象徴するとして、日本のメディアだけでなく、イギリスのBBCを筆頭に国際的にも問題視された。言い訳をするつもりは一切ない。すべては彼女をそこまで追い詰めてしまった運営側の責任だ。
この出来事を美談にするつもりもまったくない。けれど、これだけは言わせてほしい。峯岸には間違いなく尋常ではない覚悟があった。丸坊主にしないという選択肢もあったはずなのに彼女はあえて険しい道を選んだ。そして研究生に降格したものの、峯岸はには残っている。
その後の活躍はご存じの通りだ。
バラエティ番組に出れば率先してイジられ役に回り、問題になった一件ですら自らネタにしている。深く傷つき、葛藤もあったはずだ。峯岸は本当にたくましい。
後編記事『〈大島優子は「不倫のほうがダメだよ」と怒り〉文春砲を食らった元劇場支配人が初めて明かす「あの時」』へ続く。