人気絶頂期に相方が逮捕、次の相方は急逝。“デスノート”と呼ばれた芸人が、それでもポジティブに生きられるワケ

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 芸人・だんな松丘(松丘慎吾)さん、55歳。お笑い好きなら坂道コロコロや、鼻エンジンというコンビ名でピンとくる人もいるかもしれない。
 だんな松丘さんは90年代お笑いブームのきっかけとなった『ボキャブラ天国』(フジテレビ)や『爆笑オンエアバトル』(NHK)に出演し人気を博した。だが、相次ぐトラブルに見舞われ、お笑い界で“デスノート”と呼ばれたことも……。今回は、その波乱万丈なを振り返る。(記事は全2回の1回目)

◆になるために上京、気づけば「坂道コロコロ」に

――どのようにして芸人になられたのでしょうか。

松丘:親父から『お前はおもしろいからお笑いをやれ』って言われて、大阪にあった松竹芸能の養成所に入学したんです。そうしたらネタもやらないし台本も読むのでおかしいなって思ったら、俳優部だった。結局、事務所を辞めて東京に行きました。

――そこから本格的にお笑いを目指すのですね。

松丘:そうです。コンビを結成してオーディションを受けて、ホリプロに所属しました。当時はよほどひどい人じゃなければ合格したんじゃないかな(笑)。僕らの先輩にはさまぁ~ずさん、フォークダンスDE成子坂さんがいましたね。大阪と東京では、出番前のあいさつの仕方が違って、さまぁ~ずさんに「お先に勉強させてもらいます」って挨拶をしたら「なにを勉強するんだよ」って言われました。

――坂道コロコロというコンビ名はどうやって決めたのですか。

松丘:最初はエンドレスフィニッシュっていうコンビ名で、事務所からわかりづらいとすごく怒られた。事務所の怖い人に「ライブの出番までにコンビ名を考えてやる」って言われて、出番になったら「坂道コロコロです」って紹介された。ええー、俺たち坂道コロコロなんだって思いました。

――コンビ名を変えようと思わなかったのですか?

松丘:できないです。めちゃくちゃ怖かったんで。でも改名ブームでいうと、さまぁ~ずさんがバカルディさんからコンビ名を変えて売れたじゃないですか。僕らも、事務所の偉い人が光GENJIの歌詞で出てくる「しゃかりきコロンブス」が好きで、「お前ら、坂道コロンブスにしろ」って言ってきた。
またそこも命令なんですよ(笑)。ボキャブラ天国でも、ヒロミさんから「お前らもっと明るい名前にしろ」って言われて、「エンヤコラさ」っていうコンビ名になったり。大人の事情で色々変わりました。

――『ボキャブラ天国』は、最高世帯視聴率が24.5%(ビデオリサーチ調べ)という人気番組でした。どのように出演が決まったのですか。

松丘:ボキャブラは、同じ事務所から成子坂さん、アリtoキリギリスさん、つぶやきシローさんが出ていたからもう枠がなかった。それでも諦めずに毎週、制作会社に20本くらいネタをFAXで送っていました。何度も繰り返していたら、やっと2、3か月後に連絡が来た。

――自力でつかんだチャンスだったのですね。

松丘:当時はスタッフさんもめちゃくちゃ怖い人が多くて、本当にもう地獄でしたよ(笑)。でもスタッフの前でネタを披露したら、すごく笑いが起きた。本番でもめちゃくちゃ笑いが起きて、メジャーにランクインできた(注:番組内では11位以下はチャレンジャー扱い)。翌週からはネタを送らなくても出られるようになったので、ラッキーでしたね。テレビに出るようになって通帳を記帳したら「えええ」っていう金額が振り込まれていた。こんなに入るんだって驚きました。

◆空前のお笑いブーム。女子高生があとをつけてきたことも

――当時はお笑い雑誌も何冊かあって、アイドル的な人気がありましたよね。

松丘:ブームの頃は、毎週営業に出ていました。千人クラスのホールも客席が満杯でした。ボキャブラ芸人が出演したファンイベントに、ファンを乗せたバスが10台も来たり。なかでもネプチューンさんの人気がすごくて、道を歩けないくらいの出待ちがいた。異常な熱気でしたね。

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