
「いったい何じゃ!? 提灯の光を照らすと、そこには血が広がっていた」
「芳一の耳はもぎ取られ、血が滴り落ちている……」
ロウソクがゆらめく薄暗い部屋で、トキ(郄石)がヘブン(トミー・バストウ)におどろおどろしく怪談話を聞かせるシーンで始まった、NHK連続小説『ばけばけ』。
今期の朝ドラでトキのとなっているのが、イギリス国籍で、日本に帰化したの小泉八雲の妻・セツだ。島根県松江市にある小泉八雲旧居に隣接する、「小泉八雲記念館」。その館長を務める小泉凡さん(64)は、2人のひ孫にあたる。
「八雲の多くの作品は、セツが日本に伝わる怪談や伝承話を、八雲に語り、まとめられた再話文学です。ドラマで描かれているように、セツには語り部としての才能がありました。日本語がたどたどしく、『てにをは』の使い方や、形容詞の活用が苦手な八雲が話す独特な“へルン言葉”でコミュニケーションをとり、夫婦で作品を生み出していったのです。『耳なし芳一』や『ろくろ首』などが収録された八雲の代表作『怪談』は、夫婦合作といっても差しつかえがないと思います」
歴史に埋もれかかったセツの名が、いま、朝ドラによって脚光を浴びようとしているのだ。
「朝ドラのとなることは、制作発表される3日ほど前に、NHKから知らされました。ちょうど『怪談』出版120周年という節目もあり、セツの企画展を準備していたタイミングだったので、驚きと喜びが一緒にきました」(小泉さん)
小泉さんは、昭和7年に他界したセツと会ったことがないが、実家には愛用品があったという。
「幼少期に過ごした東京の実家の、いちばん奥にある3畳間には、セツの姿見がありました。木枠の右側が色あせているのですが、家族からは、セツがいつもぬれ手ぬぐいを右側にかけていたからだと聞きました。こうした愛用品を通して、曽祖母の息遣い、つながりを感じることができたんです」
現在、記念館に展示されている姿見は、どのようなセツの人生を映し出してきたのだろうか──。
■養女に出され、夫に逃げられたセツと、母に捨てられた八雲は心引かれ合う
小泉セツは、1868年、松江藩の城下町で、藩士の娘として生まれた。節分の時期に生まれたことが、その名の由来。『面白すぎて誰かに話したくなる 小泉八雲とセツ』(新書)の著作がある、予備校社会科講師の伊藤賀一さんも、こう語る。
「小泉家は家禄300石の藩士。父の小泉湊は号令をかけるときの美しい声が評判の武官で、母・チエは1千500石の江戸家老・塩見増右衛門の長女でした。ところがセツは生後7日目に、小泉家よりも格下の稲垣家へ養女に出されました。心のどこかで“家族に捨てられた”という思いを抱いていたのかもしれません」
明治の御一新に伴い、1875年には実父、養父ともに家禄を奉還。翌年の廃刀令によって武家も平民と同じ身分となり、セツは幼少期に激動の時代を迎えた。
「養父の没落による経済的理由で、セツは小学校の上等科(高学年)には進めず、実父・湊が起こした繊維会社で機織りの女工として働きます。しかし元武士の実父に経営手腕が期待できるはずもありません」(小泉さん)
18歳のときに鳥取の士族・前田為二を稲垣家の婿養子として迎えるために結婚。
「のちに八雲が発表した怪談『鳥取のふとんの話』は、もともとはセツが為二から聞いた話です」(小泉さん)
ところが養子先の稲垣家が無財産であるばかりか、もあり貧しい生活を強いられるため、翌年、為二は出奔してしまう。
「セツは大阪にいることを突き止め、説得に向かいましたが、結局、正式に離婚することとなりました」(小泉さん)
そんなセツが、のちに小泉八雲となるハーンと出会ったのは、ハーンが風邪をこじらせ気管支カタルを患い寝込んでいる時期だった。
「住み込みの世話役が必要だと、ハーンの投宿先であった富田旅館の女中・お信が、知り合いのセツに白羽の矢を立てたと思われます。若い女性が住み込みで働くのだから、未婚の女性よりも離婚歴があるセツが適任と思われたのでしょう」(伊藤さん)
セツがハーンの世話役をすんなり受け入れられたのは、セツが外国人に対して偏見を持っていなかったからだろう。
「セツが3歳のときです。フランス人の軍事訓練を見学した際、普通の子供なら外国人を見たら泣いて逃げ出すところですが、セツは肝が据わっていたのか、動じない。感心した陸軍軍曹ワレットは頭を優しくなで、小さな虫眼鏡をプレゼントしました。幼少のセツには大きな体験で、外国人に対する垣根がなくなったのだろうと思います」(小泉さん)
セツより18歳年上のハーンは、1850年、イギリスの保護領だったギリシャのイオニア諸島レフカダ島で生まれたが、幼少時代に一家は父の出身地であるアイルランド・ダブリンへ移住している。
「ここでハーンの父は、昔の恋人と再び恋に落ちてしまいます」(伊藤さん)
異国で孤独を感じたハーンの母は、ハーンを置き去りにして母国へ帰り、今生の別れとなった。
「母性を求める気持ちを強く持ち、のちに出会うセツに、母の姿を重ねていた部分があったのかもしれません。セツを『ママさん』と呼び頼り切っていました」(小泉さん)
ハーンの身に、次々に不幸が襲いかかった。7歳のときには父が再婚してインドへ赴任し、高校時代には遊具でけがをし左目を失明。
「右目も強度の近視だったので、文字を読み書きするのも苦労。隻眼はコンプレックスでもありましたが、目が見えづらい分、想像力や感受性が育てられたのだと思います」(伊藤さん)
その後、単身アメリカへ移住し、新聞記者などで生計をたて、39歳のときに来日。松江の島根県尋常中学校で英語教師の職を得たのだ。お互い家族に恵まれない境遇もあり、2人は引かれ合っていった。
《遠い外国で便り少い独りぽっちとなって一時は随分困ったろうと思われます。出雲の学校へ赴任する事になりましたのは、出雲が日本で極古い国で、色々神代の面影が残って居るだろうと考えて、辺鄙で不便なのをも心にかけず、俸給も独り身の事であるから沢山は要らないから、赴任したようでした》
ハーンとのの回想は、セツの著書『思い出の記』(以下《 》内は同書の引用)の冒頭にも記されている。
取材・文・撮影:小野建史
参考:小泉節子『思い出の記』
【後編】「そのはあなたのです」とセツに、東京は「地獄」呼び…『ばけばけ』・小泉八雲の「癇癪持ちな素顔」へ続く