中山美穂さんと同期の工藤静香、訃報当日の“悲痛なお願い”と2人にしかわからない“39年の仲”

ともに1985年(昭和60年)に芸能界デビューを果たした“同期”だった──。 《Instagramは、はしゃいでる写真やビデオがいっぱいなので、今回の突然の訃報はそんなところに追悼のコメントを並べられなかった》 ファンに向け、同期の訃報についてそのようなメッセージを送ったのは工藤静香。 「静香さんはスポーツ紙1紙のみに追悼コメントを寄せていますが、ファンクラブサイトでは、それとは別にファン向けのメッセージを出しています」(芸能プロ関係者) 「親友といっていい関係性だった」 12月6日、俳優・歌手の中山美穂さんが亡くなった。54歳だった。突然の訃報に世間やネット、SNSでは悲しみの声であふれている。それは中山さんが40年の月日を過ごした芸能界も同様で、多くの共演者やスタッフらが哀悼のコメントを発表している。 そのなかの1人、静香は中山さんと同じ1985年にアイドルグループ『セブンティーンクラブ』のメンバーとしてデビュー。同年に中山さんはTBS系ドラマ『毎度おさわがせします』でデビューしている。中山さんの初出演(ドラマ放送日)は1月8日、静香のレコード発売日は1月21日と、ほとんど同タイミングで芸能界に入った。ともに14歳だった。 「静香さんは最初のグループが振るわず解散した後、『おニャン子クラブ』に。 “ヤンキーキャラ”が受け、注目されるようになりました。 中山さんはアイドル歌手としてもヒットを飛ばし、デビュー年に出演した映画『ビー・バップ・ハイスクール』などで注目の新人女優に。1987年には出演したTBS系ドラマ『ママはアイドル!』で演じた役柄・中山美穂の愛称“ミポリン”がそのまま本人の愛称として定着しました」(芸能ジャーナリスト) その後、静香はおニャン子クラブの派生ユニット『うしろ髪ひかれ隊』で活躍し本格的にブレイク。中山さんと静香、そして南野陽子と浅香唯を加えた4人は“アイドル四天王”と称された。 「中山さんと静香さんの2人は1987年にフジテレビ系のドラマ『おヒマなら来てよネ!』で共演。それをきっかけに公私ともに親交を深めていきました。それはプライベートでも2人で遊びに行くような親友といっていい関係性だった」(前出・芸能ジャーナリスト、以下同) 1980年代後半から1990年代初頭にかけて、中山さんは当時全盛期だった男性アイドル・田原俊彦との熱愛が幾度となく報じられた。半同棲、ハワイ旅行などなど。そんななか……。 ファンへの悲痛なお願い 「1991年1月1日にフジテレビで放送された『新春かくし芸大会』で静香さんと田原さんが共演。これをきっかけに静香さんと田原さんの仲が噂されるようになりました。静香さんが中山さんから奪った、中山さんが静香さんに激怒した、田原さんきっかけで2人は絶縁状態になったというものです。憶測の域を出ていないものも多かったですが……。 現に1990年代に出演した歌番組で中山さんと静香さんは仲良く談笑していたり、近年中山さんは出演した番組で“当時、仲が良かったアイドル”を聞かれ、静香さんの名前を真っ先に出していました」 1980年代~1990年代、バブル景気もあり芸能界が最も華やかだったといえる時代。中山さんと静香は多少のすれ違いはあったかもしれないが、ともに最前線を走り抜いた。 「静香さんにとって中山さんは同い年で同じ年にデビューした親友であり、戦友であり、そしておそらくはライバルであった。それはアイドル・歌手としてだけでなく、もしかしたら恋路も含んでいたかもしれません。2人はまだ54歳。静香さんの心境は第三者にはうかがい知れないものがあるでしょう」 静香が冒頭の追悼文を出したのは12月9日のこと。しかし、訃報当日にも中山さんへの気持ちを表していた。いや、正確には表すことすらできなかったというべきか。 《ごめん、 ショックが強い。。。 悲報についての インスタのコメントは控えてほしい》 (工藤静香のファンクラブサイトより) 「料理や家族写真など、ファンにとってインスタは現在の静香さんを知るいちばんのメディアで、拡散力も強い。このメッセージの公開前は2人の仲を知るファンの一部から心配するコメントが投稿されていましたが、メッセージ以降はそういった類のものはなくなりましたね」(前出・芸能プロ関係者) 来る2025年は、記念すべき2人のデビュー40周年だった。2人が並ぶ姿を見ることはもう、叶わない──。  

「超危ねぇ!」あと半歩で…歩行者優先の横断歩道であわや衝突の瞬間 三重・鈴鹿市 京都では突然のUターンも

三重・鈴鹿市で目撃されたのは、横断歩道を渡ろうとする男性。 ドライバーが停車し男性が歩き始めた次の瞬間、車が猛スピードで横断歩道を通過。 男性はギリギリのところで止まり、衝突を回避しました。 その足先は…つま先立ち。 あと半歩進んでいれば車にひかれるという危険な状態でした。 ドライバー: 反射的にクラクションを鳴らして警告はできたが、びっくりして声も出なかった。 横断歩道を渡る歩行者が優先。 男性は会釈をして去っていったということです。 あわや衝突の瞬間は、京都市でも。 ドライバーが追い越し車線を走っていた、その時…。 左の車線を走っていた車が突然曲がって目の前に。 ドライバーは何とかハンドルを切り、衝突を回避しました。 ドライバー: 「あっ、もうぶつかった」と思って、本当にヒヤッとした。たぶんUターンしようと思ったんだと思う。 ドライバーによると、相手の車はUターン直後に止まったものの、すぐに立ち去ったということです。 ドライバー: その人にイライラというよりは、本当に無事で良かったという気持ちが大きいです。  

「ホテルのバルコニーから叫んで…」“急死”中山美穂(54)“終の住処”を提供したバーニング社長に聞いた「活動再開時の“謝罪”」《知人に見せていた“素顔”》

〈「水の中に前屈みで顔をつけた状態で発見」“急死”中山美穂(54)“終の住処”はバーニングが提供していた「70平米ほどの部屋は、彼女好みにリフォームを入れて」〉 から続く 12月6日、渋谷区の自宅の浴槽で亡くなっているのが発見された中山美穂(享年54)。死の2日後の8日には、彼女の公式サイトに所属事務所のコメントが発表された。 〈検死の結果、事件性はないことが確認されました。また、死因は入浴中に起きた不慮の事故によるものと判明いたしました〉 「水の中に頭をつけた状態で発見された。浴槽の中で気を失って溺れてしまったと見られています」(社会部記者) バーニングから提供された商業ビルの一室で暮らしていた 中山の自宅は繁華街にある商業ビルの6階の部屋。このビルの所有者は株式会社バーニングパブリッシャーズ。芸能界で強い権勢を誇るプロダクション「バーニング」グループの音楽著作権などを扱う会社だ。中山の知人が明かす。 「2014年に中山さんは辻仁成さんと離婚しますが、フランスから帰国して日本での芸能活動を再開するときにサポートしたのが、彼女の音楽関係の権利を全て持っているバーニングパブリッシャーズでした。 当時、彼女は音楽家の渋谷慶一郎氏と交際していて、彼のマンションで半同棲状態でした。息子のいるフランスに行くと言い出したり、フラフラした感じだったので、真剣に仕事に向き合うためにちゃんと拠点を用意しなくてはならない、ということで部屋を提供されたんです。70平米ほどの部屋で、彼女好みにリフォームを入れ、仕切りの無い一つの大きな部屋になっています。とても気に入って約10年、この部屋で暮らしていました」 家賃は彼女に入る印税と相殺されるかたちで支払われていたという。 32歳で結婚、パリ移住の際には仕事をキャンセルし… さらに、中山とバーニングについてはこんな話もある。 2002年、32歳のときに作家の辻仁成氏と結婚。翌年にはパリ移住を強行した。その際には、予定していた仕事をキャンセルしなくてはならず、事務所に迷惑をかけることになった。活動再開にあたって、芸能界のドンと呼ばれるバーニング社長の周防郁雄氏に頭を下げる必要があったという。 12月9日、周防氏本人に聞いた。中山との思い出については、「うーん」と言葉が出てこなかったが、活動再開のときに詫びに来たのかという問いには、「僕んところには来てないねぇ」と答えた。 ホテルのバルコニーから叫んでいたことも ワインが好きだった中山は、恵比寿や中目黒で飲むことが多かったという。カメラマンの舞山秀一氏は中目黒のバーで、「アニキ、久しぶり」と声を掛けられた。 「彼女が30代前半のときにCDのジャケット撮影を担当した縁から仲良くなりました。お高くとまっている感じがなくて、フラットでストレートな人。パリで仕事をしていたら、『アニキー!』ってホテルのバルコニーから彼女が叫んでいたこともありました」 その他にも、昭和から令和を駆け抜けたトップアイドル・中山美穂については、多くの貴重な証言が次々と寄せられた――。 ◇◇◇ 12月11日(水)12時配信の「 週刊文春 電子版 」並びに12日(木)発売の「週刊文春」では、中山美穂の育ての親が告白。「親友の自死」「母への愛」「田原俊彦との別れ」について明かしている。また、映画監督の岩井俊二氏が中山主演映画「Love Letter」の撮影秘話を披露、さらに9歳下の恋人ベーシストの慟哭などについて報じている。