【追悼】多くの俳優仲間とワイワイ楽しげに…歌手で女優の中山美穂さん 本誌が見た15歳からの軌跡
『毎度おさわがせします』で一躍トップアイドルに 歌手で女優の中山美穂さんが亡くなったことが12月6日にわかった。享年54だった。 6日の正午ごろ、東京・渋谷区の中山さんの自宅を訪れた事務所関係者から、「浴槽の中で亡くなっている」と110番通報があったという。その後、現場で死亡が確認され、警視庁が死亡の経緯について調べている。 「中山さんは1982年に東京・原宿でスカウトされ芸能界入りしました。1985年の14歳の時、ドラマ『毎度おさわがせします』(TBS系)のツッパリ少女・のどか役で一躍、脚光を浴びます。同年のドラマ『夏・体験物語』(TBS系)で主演デビュー。主題歌となったシングル『「C」』でアイドル歌手としてもデビューし、“ミポリン”の愛称で、瞬く間にトップアイドルになりました。 1995年には映画『Love Letter』で主演女優賞を総なめにし、1997年の映画『東京日和』で、写真家・荒木経惟氏の妻役を演じて、日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞しました。’80年代後半はアイドルとして、’90年代は女優としてトップを走りつづけた稀有な才能の持ち主でした」(テレビ誌ライター) ’02年にミュージシャンで小説家の辻仁成(65)と結婚。それを機に日本での芸能活動を休止し、フランス・パリに移住した。’14年の離婚後、都内で独身生活を送っていた中山さんだったが、そんな彼女の幸せそうな姿を『FRIDAY』(’16年4月29日号)が報じたのは、’16年4月のことだった。 ◆俳優仲間と楽しげに居酒屋で この日、中山さんは世田谷区・下北沢にある本多劇場で上演された舞台『魔術』に出演していた。終演後、彼女が俳優仲間たちと訪れたのは、庶民的な雰囲気のおでん屋『S』。 「ここは本多劇場に近いので、舞台の打ち上げなどによく利用されます。ウリは静岡風の黒ダシのおでんで、それをつつきながらソウルミュージックが聴けるという、いかにも下北らしいカオスな雰囲気の店。一品100円前後という大衆店なのに、大物俳優が普通に座ってたりするから、ビックリしますよ」(舞台関係者) 閉店時間の深夜0時、店を出た俳優陣が往来でお喋りに興じている。その中には萩原聖人(53)や勝村政信(61)の姿も。しばらくすると、中山さんが店の階段を下りてきた。終始ご機嫌な様子で、まるで彼らを従えるように、彼女が先頭に立って歩き出したのだった。 中山さんは『週刊朝日』(’20年1月3・10日合併号)で、インタビュー取材に応じていた。その中で、自身が思う女優の理想像について、このように語っていた。 〈役を演じる上で、技術的な部分や熱量以外に、自然に滲み出る何かが、一番その人のオリジナルなんだと思う。だとしたら、年を重ねること、経験を積むことすべてがお芝居の肥やしになる。80歳ぐらいのおばあちゃんって、陽だまりの中で座っているだけでも、何かが見えちゃうじゃないですか。私もそういう豊かさが欲しいんです。年齢を重ねて、ちゃんと自分の“味”を出していきたい。(中略)お芝居だけじゃなく、私自身も、年齢を重ねながら、いつかそういう存在になれたらと思います〉 1980年代、14歳から現在まで芸能界の第一線を走り続け、多くのファンを魅了した中山さん。心からご冥福をお祈りいたします。
中山美穂さんと親友の男性芸人 遺体と悲しみの対面「いつもの寝てる姿と変わらない」
お笑いトリオ・インスタントジョンソンのじゃいが10日、自身の公式ブログを更新。自他ともに親友と認め、6日に都内の自宅で死去した歌手、女優の中山美穂さんの遺体と対面したことを明かした。 じゃいはブログで「最後の訪問」とし、中山さん遺体が安置された自宅を訪問したことを明らかに。その様子を「部屋に入ると、中央にあるベッドの上に美穂ちゃんは眠っていた。訃報を聞いてから初めての対面。分かってはいたことだけど、やはり泣いてしまった。『ほんと、何してくれてんだよ』震えた声でそう言ったが、美穂ちゃんは知らんぷりしている。今にも起きてきて『ちょっと、あんたたち何してんの?』と言いそうなくらい、いつもの寝ている姿と変わらない様だった」とつづった。 一緒に部屋にいた中山さんの妹で女優の忍にも触れ、「忍ちゃん含め、その部屋に居た全員が『本当に凄い人だったんだね』と改めて共感した」としみじみ。「泣いているし、目の前にいるのに、やっぱり受け入れられずにいる。脳がバグってるようだ」と本音を告白した。 中山さんの部屋の思い出を「飲みに行った後にこの部屋でまったり話すこともあった。鍋パーティーをしたこともあった。忘年会もした。夜中に酔っ払いながら『お酒買ってきて』と呼び出されたこともあった。改めて考えたら、意外と料理が上手だったなぁ」と述懐したじゃい。「この部屋に来るのはこれが最後になるだろう。お別れの挨拶に来たつもりだったけど、最後は『美穂ちゃん、バイバイ、またね』と手を振って部屋を出た」と締めくくった。
「交際に反対ではなかった」 中山美穂さんの「人気ジャニーズアイドル」との熱愛秘話 かつてのマネージャーが明かす
「『毎度おさわがせします』の初回放送後に……」 中山美穂さん 12月6日に54歳で亡くなった女優の中山美穂さん。14歳でドラマに初出演し歌手としても大成功を収めるなど華々しいキャリアを送ってきた。彼女のこれまでをよく知る人々が、デビュー当時の初々しい素顔や、彼女との思い出について明かした。 中山さんは中1の春に原宿でスカウトされ、モデルとして芸能界入り。転機となったのは、1985年のTBS系ドラマ「毎度おさわがせします」のツッパリ少女・のどか役での女優デビューだ。 中山さんの所属事務所「ビッグアップル」創業メンバーの一人で、初代マネージャーの岡嶋康博氏が振り返る。 「作品は思春期の性をテーマにしたホームコメディードラマでした。初回放送の前日、彼女が“見てくれますかね”と心配していたのを覚えています。初回放送後、二人で街を歩いていると“あれ、のどかじゃないの”という女子中高生の声が聞こえてきて、私たちは驚きました。そんなに反響があるなんて、思ってもいなかったのです」 「当時から大人びていて、声も良かった」 ドラマ初出演と同じ85年、歌手デビューも果たした。キングレコードOBの福住朗氏の話。その才を見いだした人である。 「事務所からの推薦を受け、面談を経て弊社スタジオで歌のテストを受けてもらいました。中森明菜の『スローモーション』が好きだと言うので歌ってもらったのですが、当時から表情がどこか大人びていた。また、声も良かったですね。澄んだ声をしていて、歌唱力にも恵まれていました」 昭和歌謡に強かったキングレコードの社内では、彼女を売り出すことに反対の声も上がったという。が、「毎度おさわがせします」で人気に火がついて、歌の面でもその才能を遺憾なく発揮したのだ。 「上手にやってくれさえすればよかったんです」 「ビッグアップル」社長の鈴木伸佳氏は、彼女とのある思い出についてこう語る。ジャニーズの田原俊彦との熱愛を報じられた際のことだ。当時鈴木氏はマネージャーを務めていた。 「今と違って、アイドルの熱愛スキャンダルは死活問題。週刊誌に撮られてはいけないので大変でしたよ。テレビ局で生の歌番組が終わって、局から事務所の車を出すと、雑誌社のバイクが3台、車が2台くらい追いかけてくるんですから」 そう苦笑しながらも、 「ただ、自分はトシちゃんとの交際自体には反対ではありませんでした。派手に振る舞えば週刊誌に書かれてしまいますが、上手にやってくれさえすればよかったんです。彼女は結婚を望んでいたと思いますよ」(同) 「一緒にやりたいなと思っていたのですが……」 最後の出演映画となった「死刑にいたる病」の白石和彌監督が語る。 「中山さんは僕が映画監督になる前からトップアイドル。その頃からずっと大好きでした。彼女が演じたのは、消え入りそうな母親の役。現場では誰かと喋るというよりは、そのシーンの撮影に備えて、じっと演技を考えておられた。特別な存在でした。また機会があれば作品に出てもらって、一緒にやりたいなと思っていたのですが……」 12月12日発売の「週刊新潮」では、中山さんの輝かしい活躍をそばで見てきた人物たちが、彼女の唯一無二の才能、知られざる素顔について語っている。 「週刊新潮」2024年12月19日号 掲載