Author: d3001

《高校を卒業したらお茶畑を手伝え》大学選手権4連覇の中西学、新日本プロレス入りに大反対した父との「現在の関係」と「これからの夢」

26 October 2025

2020年に引退した元プロレスラーの中西学さん 写真一覧 1989年から全日本レスリング選手権大会4連覇、1992年にバルセロナ五輪フリースタイル100kg級出場と、鳴り物入りで新日本プロレスに入門した中西学さん(58)。レスリングのエリートコースを歩んできたと思いきや、中西さんは中学生まではレスリング未経験だった。中学時代、通信簿に最低評価である「1」がズラリと並んだ問題児が、新日本プロレスのIWGPヘビー級王者へと成り上がるまでの半生を語った。【前後編の後編。前編を読む】 ──ご出身は京都でご実家はお茶農家だったそうですね。 「京都の宇治で産まれ育ちました。地元のお茶農家の三男で、現実を見ないで空想ばかりしていたからか、親は僕を『外に出したらいかんな』と言って、中学を卒業したら実家の茶畑を手伝えって感じでした」 ──レスリングを始めたきっかけはなんだったんですか? 「昔は通信簿と言いましたけど、中学の頃は図工が3、体育が2、それ以外すべて1という成績だったこともあって、酷いものでした。このままじゃダメだなと思って1回だけ努力してみようかなと思ったんですよ。 中学3年生の2学期は、先生から特別課題とかを出されたりして、提出物をちゃんと出すようにしたんです。それで、音楽だけは2やったけど、あとはなんとかオール3を取れた。先生に頼み込んでね(笑)」 ──中学生ながらに考えて現状を打破しようと思ったんですね。 「たまたま志望していた地元の高校にレスリング部があって、何も考えずクラスメイトのみんなに『高校に入ってレスリングやってオリンピック目指すんや』と言い出していた。とんでもないやつですよね。それまでレスリングもスポーツもやったことないのに」 ──努力の末、無事に第一志望だった宇治高等学校(現:立命館宇治高等学校)に入学。レスリングと出会いました。 「当時は京都府内でレスリングをやっている高校が3校あったんですけど、だいたい母校が府の代表になることが多く、近畿大会や全国大会まで進むので、練習は学校内でもいちばん遅くまでやってたんじないですかね。午後3時半くらいから夜8時くらいまで練習をしていました」 ──のちに全日本レスリング選手権を4連覇する中西さんはそこから“覚醒”した。 現役引退から5年、現在は愛知県で仕事をする中西さん 写真一覧 「父親からはずっと『レスリング部辞めろ』って言われていて、『高校を卒業したら、茶畑手伝えよ』と。そしたら、高校最後の大会で全国2位になれて、当時は西日本より東日本の方がレスリングのレベルが高く、長州さんの母校である専修大学にも声をかけてもらったので、大学に行かせてもらえたんです」 ──大学の時に才能が開花して、数々の好成績を残されています。 「大学の最後の大会でインカレと大学選手権というのがあるんですけど、『グレコローマンスタイル』と『フリースタイル』という2つのジャンルで優勝して、タイトルは4年生の時にすべて取れたんです。 プロレスラーにはもちろんなりたいけど、レスリング最高峰の五輪に出場したいと思い、長州さんにスカウトされて新日本プロレスのアマチュアレスリング部門である『闘魂クラブ』に入団して、1992年のバルセロナ五輪に出場しました」 ──1992年に憧れだった新日本プロレスに入団。セルリアンブルーのリングでデビューしました。 「デビュー戦は今でも覚えていますね。道場の“ちゃんこ鍋”が美味くて、たくさん食べていたからか、身体もいつの間にかゴツくなっていたんですけど、デビューしたてで受け身も上手くない。当初はヘッドギアをつけて、アマチュアスタイルの感じでやらせてもらったんですけど、まあ酷いもんでした(苦笑)」 同期の永田裕志選手、同世代の天山広吉選手、小島聡選手と切磋琢磨してきた 写真一覧 ──ご家族の反応はどうでしたか。 「兄はプロレスファンでしたけど、父親は大反対で家業を継いでほしかったと思います。それでも『頑張ってるんで応援してやってください』と、いつもいろいろな人に頭を下げてくれていたみたいです。地元の試合や引退、復帰の時も駆け付けてくれたし、父はいつも心配してくれて、親身になって守ってくれていました」 ──同世代の天山広吉選手(54)、小島聡選手(55)、同期の永田裕志選手(57)とはどういう関係だったんですか? 「ライバルではありますけど、あの2人(天山、小島)と僕は同じタイプやから、スタイルは違うけどパワー勝負になってしまう。もっとレスリング的な動きを取り入れればよかったんですけど、自分で“プロレス”にこだわりすぎたところもありました。 そういう意味で、永田が加わってタッグ戦で天山選手・小島選手チームと戦う時は、僕は永田の手のひらに乗せられてやってましたね」 ──現役生活28年、2020年に現役を引退して5年が経ちました。今の心境はどうでしょうか。 「厳しい世の中で生きていくには、やっぱりできることを少しずつやっていくしかないです。簡単にはできないとは思うんですけど、それでも、与えられた仕事は一生懸命やって、正直に生きていかなければならないと思いますね。ごまかして通用するような時代じゃないんで、自分の若い頃のように『なんでも後回しにしないでやっていかなあかんぞ』っていうことを伝えていきたいです」 ──今、中西さんが思い描いている夢はありますか? 「僕ら子どもの時にプロレスに夢と希望を与えてもらいました。僕が幼稚園の時は、夜8時からテレビで新日本プロレスが放送されていて、その時に日本人選手が外国人のレスラーに血だらけにされていました。“これは酷い、大人になったら仕返しするしかない”、そう感じていた自分の夢は叶いました。今度は僕がアマチュアの子どもらにレスリングを教えながら、夢や希望を与えられたえらなって思います」 (了。前編から読む) 文/千島絵里香(ジャーナリスト)…

「曲がった口角に合わせてネクタイもずらす」政界のおしゃれ番長・麻生太郎のファッションに隠された“知られざる工夫” 《米紙では“ギャングスタイル”とも》

26 October 2025

政界の”おしゃれ番長”である麻生太郎・自民党副総裁(時事通信フォト) 写真一覧 齢85にして、いまだ政界で絶大な権力を発揮する麻生太郎・自民党副総裁。先日行われた自民党総裁選においては、党内唯一の派閥となった“麻生派”を統率し、高市早苗・自民党総裁(64)の選出に大きく寄与し、「キングメーカー」の存在感を示した。 そんな麻生氏について、たびたびSNSなどで話題になるのがそのファッションだ。かつて米紙「ウォール・ストリート・ジャーナル」で“ギャングスター・スタイル”とも評されたが、並々ならぬこだわりがあるようだ。 全国紙政治部記者が語る。 「麻生さんは誰もが認める“政界のおしゃれ番長”です。曰く、学生の頃からオーダースーツを愛用しており、どんな時もシワひとつないことは、霞ヶ関では有名。イタリアの高級帽子ブランド『ボルサリーノ』のハットも愛用品です。 最近だと、7月に麻生氏が岸田文雄氏、菅義偉氏と会談した際に白のハットを被っていたことから、〈マフィアみたい〉とSNSで話題になりました。余談ですが、本人はギャング映画の金字塔『ゴッドファーザー』の大ファンらしい」 そんな麻生氏の行きつけは東京・青山の老舗紳士服店「テーラー森脇」。2018年には「アッコにおまかせ」(TBS系)が同店に取材し、麻生氏が年に数回、一着およそ35万円のオーダースーツをまとめて仕立てていることが明らかにされている。 そのファッションのルーツはどこにあるのか。 「祖父である吉田茂氏の影響が強いと言われています。吉田氏は首相になる前、駐英大使を務めており、孫の麻生氏にも“英国スタイル”を叩き込んだ。吉田氏は、アメリカ留学から帰った麻生氏の英語を聞いて『お前がしゃべっているのはアメリカ語だ』と怒り、わざわざイギリスに留学し直させて、“クイーンズ・イングリッシュ”を習得するよう言ったといわれています。 麻生さんが『テーラー森脇』で仕立てているのも英国風スーツ。美しいラインを崩さないようベルトはしないとか」(同前) あるファッション評論家は「こだわりが強く、自身のスタイルを確立している」と語る。 麻生氏のファッションは工夫が凝らされた独自のスタイルだという(時事通信フォト) 写真一覧 麻生氏がしている”意外な工夫” 「基本は英国のトラディショナルスタイルですね。あのスタイルは着る人を選ぶので、あそこまでバシッと決まる政治家はまずいない。着丈に気を遣っているのはもちろん、着席時には必ずジャケットのボタンを外すなど、相当見られ方を気にしている。“上流階級”だということを示す、記号的な意味もあるのでしょう。 シワが目立たないよう、パンツの裾に重りを入れているようですが、これはイギリスの慣習ではありません。独自に考えて工夫するようになったのでしょう。あと個人的にすごいなと思うのは、ネクタイです。彼は少し右の口角が上がっていますが、視覚的にバランスをとるため、わざとネクタイを右側にずらしている時がある。かなり研究したのではないでしょうか」 前出の全国紙政治部記者によると、「80歳を超えても、日々の散歩や腹筋を欠かさない」という。 鍛えた肉体を高級スーツに包む麻生氏だが、その“上流意識”に批判が集まることも少なくない。ある政治ジャーナリストが言う。 「有名なエピソードでいうと、麻生氏が初めて衆議院議員に出馬した際、福岡県飯塚市駅前で街頭演説し『下々の皆さん』と失言したことでしょうか。若い頃から金には苦労しなかったのでしょう。『とてつもない金持ちに生まれた人間の苦しみなんて、“普通の人”には分からんだろうな』と周囲にぼやいたこともあるといいます。 ほかにも2008年の首相時代、参院外交防衛委員会で野党議員にカップラーメンの値段を聞かれた麻生氏は『最初に出た時、えらく安かったと思うが、いまは400円くらいします?』と答弁。野党議員は『170円くらい』と返し、周りは苦笑い。6年ほど前に『老後資金2000万円不足問題』が議論されていた際には、『年金がいくらとか自分の生活では心配したことありません』と言い放ったといいます」 ファッションセンスだけではなく、庶民感覚も磨いてほしいものだ。 【写真】「曲がった口角に合わせてネクタイもずらす」麻生太郎氏のファッションの”工夫”を実際にみる