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《私には帰る場所がない》ライブ前の入浴中に突然…中山美穂さん(享年54)が母子家庭で過ごした知られざる幼少期「台所の砂糖を食べて空腹をしのいだ」

あまりに突然の出来事だった──12月6日、渋谷区にある自宅の浴槽内で亡くなっていることがわかった歌手で俳優の中山美穂さん(享年54)。

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所属事務所は12月8日、中山さんの公式サイトで「検死の結果、事件性はないことが確認されました」と発表し、死因は「入浴中の不慮の事故」と伝えた。

1980年代半ばから90年代にかけ“ミポリン”の愛称でトップアイドル、そして女優として活躍した中山さんだが、生前、幼少期のエピソードについてはあまり語らなかったとされている。【前後編の前編】

そんな彼女も、2012年の自著『なぜなら やさしいまちが あったから』(集英社文庫)で自身の幼少期や家族について赤裸々に綴っていた。その中には、当時の暮らしぶりを表したような一節がある。

〈はじめましてとさようならはいつもセットだった──〉

“別れ”の連続だった幼少期

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さかのぼること1970年3月、中山さんは長野県の自然豊かな町で生まれた。ある芸能記者は言う。

「ご両親は地元でスナックを経営されていたようです。中山さんが3歳の頃におふたりは離婚しており、彼女には実父の記憶がほとんどないといいます。その後は実母と妹で女優の中山忍さん(51)と東京へ引っ越しましたが、母子家庭のためか生活が苦しく、中山さんは台所の砂糖を食べて空腹をしのいだこともあったそう。

上京してほどなくお母さんが昼夜問わず働き詰めになり、ほとんどの時間を親戚の自宅で過ごすことになりました。

芸能界については幼稚園に入るころからすでに憧れがあったようで、親戚の家では段ボールの上に乗って『キャンディーズ』や『ピンク・レディー』の曲を歌っていたこともあったとか」

のちに中山さんはこの親戚を、トーク番組『A-Studio』(TBS系)で“育ての親”だと述べている。なかでも叔父にあたる男性については「本当の父親のように家族の一員として接してくれました」と語っており、忙しい母親に代わって愛情を注いでくれる大切な存在だったようだ。

そんな“第2の父”ともいえる男性だが、中山さんの世話をしている間に若くして亡くなってしまう。幼少期の短い間で二度も“父親”を失う体験をした中山美穂さんは、前出の自著でもその存在と自身の恋愛観を重ねてこう振り返っていた。

〈思春期からの数々の恋愛は、父親を求めるような戯れでもあった。未熟と成熟を抱えながらその中心でバランスを保つことはなく、常に激しく人と向き合っていたと思う。ほとんどの大人と異性は私に、自分で学ぶことの大切さを教えてくれた〉

この失望から束の間、中山さんにとって大きな出来事が起きる。

「中山さんが10歳くらいの頃、お母さんが秋田県出身の男性と再婚し、一緒に暮らすようになった。1982年にはその義父との間に弟も生まれており、その頃の中山さんは子どもながらに『寂しいけど、長女だからしっかりしないと』と感じていたようです。

また両親の仕事の関係で、都内で何度も引っ越しを繰り返していたことから友人と呼べる人がほとんどいなかったともいいます。連載をしていた女性誌のエッセイでは、当時の生活を『帰る場所がなかった』というふうに語ったこともありました」

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鈴木蘭々、中山美穂さんの思い出を回顧 オーディションで「ミポリンのRosaを歌ったり」

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期待のガールズグループ・2FACE、初お披露目ライブ開催 「夢に向かって全力で駆け抜けていきます」

7人組ガールズグループ・2FACE(トゥーフェイス)が21日、都内でグループ初のお披露目ライブを開催した。 2FACEは、BE:FIRSTや NiziUといったトップアーティストへの楽曲やダンスを提供してきたクリエイター集団「PROJECT K」が主催した新世代ガールズオーディション『ガルズナビ』で、世界各国から集まった1500人超の応募者の中からメンバーが選抜された。オーディションの模様は、TOKYOMXなどで放送された音楽番組『うたなび!』で約6ヶ月間密着取材され、話題を呼んだ。 メンバーは、リーダーの HINATA(ヒナタ)をはじめ、MARIA(マリア)、NIKO(ニコ)、NIINA(ニイナ)、RINA(リナ)、KUREA(クレア)、NIRAI(ニライ)の7人で、KUREA(姉)と NIRAI(妹)は姉妹。グループ名の「2FACE」は、“K-POPの力強いパワフルさ”と“J-POPの可愛いらしい清廉さ”という2つの顔を兼ね備えたグループという意味が込められている。  イベントでは、1stデジタルシングル「PEEP PEEP」や来月発売する新曲「Girls Night Out」など3曲を披露。ファンに初お披露目し、会場を沸かせた。 トークコーナーでは、オーディション時を振り返り。デビューが決まった時の周りの反応を聞かれると、RINAは「オーディションを受けることを公表していなかったので、周りに初めて発表したときは、本当にびっくりされました。両親にもびっくりされましたが、一度きりの人生だから後悔ないように頑張ってきなと言ってくれました」と答えた。 KUREA(姉)と NIRAI(妹)は年子の姉妹。KUREAは「まさか姉妹で受かると思っていなかったのでびっくりしました。ひとりで上京してたら寂しかったと思うので、嬉しいです」とコメント。NIRAIは「けんかはするけど、それくらい仲が良いのかな」と姉妹仲を明かした。 NIINAは元国家公務員。オーディションに参加した理由を「高校生の頃からK-popが好きで。ただ、その頃には公務員になる進路を決めていましたが、大好きなIVEさんのライブに行ったときに、やっぱり同じステージに立ちたいなと思って。夢を諦めたくないと思って、挑戦しました」と明かした。 イベント終盤では、メンバーの家族からサプライズのメッセージが。メッセージと共に、メンバーの幼少期の写真が映し出された。メンバーは感極まり、涙を浮かべていた。リーダーのHINATAは、「もっと多くのステージに立って、もっともっと大きくなって、この恩を返せるよう頑張りますので、そのときまで待っていてください!」と力強く決意を述べた。 この日、HINATAはこれまでのハイトーンのロングヘアから、黒髪のショートヘアでイメージチェンジをして登場。「PEEP PEEP」のMVで髪を切るシーンがあるが、これはデビューにあたってのみんなの決意を表したシーンであるとのこと。HINATAは「それくらい固い決意を持って、『これから大きくなっていこう』という意味を込めてのイメチェンですかね」と説明した。 最後にNIINAは「この景色が本当に幸せです。ありがとうございます。これから大きくなっていくので、たくさんの応援よろしくお願いします」と思いを込め、感謝を伝えた。HINATAが「eyes(アイズ)(ファンの通称)のみんながこの瞬間を共にしてくれたことをめちゃくちゃうれしく思うし、すごく幸せに感じています。これから2FACEの夢に向かって全力で駆け抜けていくので、みなさんついてきてください!」と気合い十分に語った。 同グループは、今年9月24日に1stデジタルシングル「PEEP PEEP」を発売。25年1月28日には初のミニアルバム『My Boo』でCDデビュー。2月1日に都内でデビューショーケースを開催する。

楢崎正剛、秋田豊、藤田俊哉…吉田麻也に大きな影響を与えた先輩選手に感謝「目をかけていただいていたのは間違いない」

吉田麻也がパーソナリティを務めるTOKYO FMのラジオ番組「吉田麻也の切り替えて行こう!」(毎週土曜9:30〜9:55)。吉田麻也が“何があっても切り替えて行こう!”というDFならではのスローガンを掲げ、最新のニュースやリスナーからのメールに鋭く反応していく番組です! 12月14日(土)の放送では、プロになる前の貴重な経験について語りました。 「先日、あるテレビ番組で、麻也さんを18歳から取材されているというライターさんが『当時、楢崎正剛さんが「プレーは成長しないといけないけど、麻也の素質は日本代表のキャプテンをやれるだけのポテンシャルがある」とおっしゃっていた』というエピソードを紹介されていました。若手の頃から期待をかけられていたことを麻也さんは知っていましたか?」 吉田:(アカデミー時代から)先輩方に目をかけていただいていたのは間違いないと思います。僕がプロに昇格するかどうかぐらいの17〜18歳のときに、楢崎さんもそうですし、秋田豊さん、藤田俊哉さんなど、当時のJリーグを代表するベテラン選手たちが、自分のチーム(当時:名古屋グランパスエイト)に所属されていて、Jリーグのなかでも本当のプロフェッショナル(な姿)を目にすることができたのは、自分にとって大きな財産でしたし、やっぱり、Jリーグ・アカデミーの良い点ってそういうところじゃないかなと思います。 また、当時の僕は、チーム寮で若手選手たちと同じ屋根の下で生活をしていましたが、そこで、どういう選手が1軍で試合に絡んでいくのか、逆にどういう選手がダメになっていくのかをまじまじと見てきた経験があって、そのなかで、高校生ながら“自分が(プロで)生き残るにはどうしたらいいだろう?”と考えていたのもあるかなと思います。 特に、現ジュビロ磐田の強化部長の藤田さんなんかは、露骨にプレッシャーをかけられたというか……(苦笑)。僕がまだ20代になるかならないかぐらいのときに、地元企業の方とのご飯に誘っていただいて、礼儀作法も全然わからないまま連れて行かれたんですけど、そこで(藤田さんが)企業の方々に「こいつは、すぐ代表入りしますんで!」みたいなことを言って“え〜!? 急になんてことを言い出すんだ!!”って思うくらいプレッシャーをかけられました(笑)。 でも藤田さんは、長年Jリーグを見てきた肌感で“どんな若手が伸びるのか”がなんとなくわかっていたんだろうな、という気がします。そして、自分もそういう歳になってきて、なんとなくですけど“こういう選手は伸びるだろう”“(プロとして)生き残るだろう”っていうのは肌感で分かってきました。 どんな職種でもおそらくそうだと思うんですけど、そういう若いときの経験が今すごく活きているなと感じます。

吉田麻也「携帯が鳴り止まないというか…」“所属チームの優勝”に感無量「僕にとってはプロ18年目で初めての優勝」

吉田麻也がパーソナリティを務めるTOKYO FMのラジオ番組「吉田麻也の切り替えて行こう!」(毎週土曜9:30〜9:55)。吉田麻也が“何があっても切り替えて行こう!”というDFならではのスローガンを掲げ、最新のニュースやリスナーからのメールに鋭く反応していく番組です! 12月14日(土)の放送では、自身が所属するロサンゼルス・ギャラクシー(以下:LAギャラクシー)のMLS(アメリカメジャーリーグサッカー)優勝の喜びを語りました。 パーソナリティの吉田麻也「MLSの年間王者を決めるMLSカップの決勝がおこなわれ、LAギャラクシーがニューヨーク・レッドブルズを2-1で破り、リーグ最多6度目の優勝を果たしました。LAギャラクシーは2014年以来、10年ぶりの全米制覇。また、キャプテンの吉田麻也選手にとっては、所属するクラブチームでの初タイトルとなりました」 吉田:(MLSカップ決勝は)前半早々に2点をリードすることができて、セットプレーから1点は返されましたが、その後はなんとか逃げ切りました。僕にとってはプロ18年目で初めての優勝! そして、LAギャラクシーにとっても2014年以来10年ぶりの優勝となりました。 僕たち(LAギャラクシー)は、MLSのなかでもポゼッションのチームで、10番のリキ・プッチ(以下:リッキー)を中心にボールを大事に保持しながらプレーするプレースタイルだったんですが、西地区決勝の試合でリッキーがケガをしてしまったんですね。 なので、決勝ではチームの中心がいないなかで“現実的に戦う”ということを徹底しまして、僕もいつもだったら絶対につなぐようなところもあえてロングボールを多用し、ミスを犯さないようにプレーしました。 正直、決勝戦はそんなにいいパフォーマンスではなかったですが、こういう一戦は、やっぱり“どうサッカーをするか”よりも“勝ち負け”が一番大事だと思っているので、チーム内でも試合前から何度もそのことを話すくらい、とにかく“勝った者がすべて”。それもまたサッカーの一部です。 昨日(決勝当日)は現地時間の午後1時キックオフだったんですけど、(優勝が決まった後)1回スタジアムでお祝いして、その後、LAギャラクシーの親会社はものすごく不動産を持っていて、ホテルやスタジアム、シアターも持っているので、そこを貸し切って、スタッフもみんな集めて夜中12時過ぎまでパーティーをしていました。さらに選手は、そこからナイトクラブに繰り出すというね。僕は年齢的な問題もあって12時過ぎでノックアウトしてしまったんですけど(苦笑)。 やっぱり、優勝するのはいいですね! 素晴らしいと思います。昨日から携帯が鳴り止まないというか、ずっと(いろいろな人から)連絡が来るので、今は返信にすごく時間を割かれていますが、とにもかくにもやっと優勝できて良かった! あと、ヨーロッパからアメリカに行ったときに、年齢的にどうしても“キャリアの終盤だから、アメリカの生活を楽しみに行ったのではないか?”と思われることが多かったのですが……実際、楽しんでいるんですけど(笑)。そのなかで、(プロとして)日々自分の目標を立ててやってきて、それが報われたというのは非常にうれしい瞬間だったなと思います。 —————————————————- 12月14日(土)放送分より(radiko.jpのタイムフリー) 聴取期限 2024年12月22日(日) AM 4:59 まで ※放送エリア外の方は、プレミアム会員の登録でご利用いただけます。

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