史上2番目の高値2億700万円の「一番マグロ」1160円で店舗提供へ 「オノデラグループ」と「やま幸」が落札 釣り上げた青森・大間の漁師・竹内正弘さん「夢みたい」

東京・豊洲市場で新春恒例の「マグロの初競り」が5日朝に行われ、最も高い一番マグロが史上2番目の高値となる2億700万円で競り落とされました。 初競りでは、鐘の音を合図に次々とマグロが競り落とされていきました。 最も高い一番マグロは、青森県大間産の276kgのクロマグロに2億700万円の値がつきました。 これは2024年を大幅に上回り、統計がある1999年以降で史上2番目の高値だということです。 一番マグロは、銀座で寿司店などを運営する「ONODERA GROUP」と仲卸の「やま幸」が共同で競り落とし、この2社による落札は5年連続です。 やま幸・山口幸隆社長は「競り終わった後に、このマグロが一番と決まった時点でホッとした」と話し、オノデラHD・長尾真司社長は「食で皆さんを笑顔にしたい、幸せにしたい。(初マグロを)食べていただいて、皆さんが良い一年を過ごせるようになれたらいいなと」と話しました。 一番マグロを釣り上げた竹内正弘さんは「夢みたい。びっくりはしたね。(Q.2億円は想像は?)してないですね。おいしくいただいてもらえればありがたいです」と笑顔で話しました。 一番マグロは店舗で解体され、系列店で赤身とトロの食べ比べで1160円で提供するということです。

伊藤沙莉に“二股疑惑”を釈明させた、恋人脚本家「人として大事にした」浮気男の詭弁

《私はお2人が友人なのは知っています。そして何より蓬莱竜太さんを知っています。信じているというのではなく、知っています。知った上であえて言えることは 大丈夫です。ってことくらいです。》 4月20日、自身のツイッターを更新した伊藤沙莉(さいり)。近年、演技派女優としてメキメキと頭角を表した彼女が何を釈明したのかというとーー。 「18歳年上の脚本家・蓬莱(ほうらい)竜太さんとの熱愛を『フライデー』にキャッチされたことが発端です。同誌の直撃取材にも気さくに応じる2人の姿に、歳の差を感じさせない、お似合いの“実力派カップル”と祝福されていたのですが……」(スポーツ紙・芸能デスク) 記事が配信された翌日の4月12日には、《温かく見守っていただけると幸いです》とツイッターで交際宣言。もとより好感度の高い彼女ではあるが、この熱愛スクープでますます“株を上げた”ように見えた。 自宅お泊まりも浮気は「ない」 すると今度は『文春オンライン』が、4月20日に【伊藤沙莉の18歳上恋人劇作家・蓬莱竜太氏が朝ドラ女優と“二股愛”】との記事を配信。『フライデー』報道の前日に、蓬莱氏が伊藤とは違う女性宅で一夜を過ごしたという内容で、この報道を受けて、伊藤は冒頭の“釈明ツイート”をするハメになったというわけだ。 “二股”疑惑の相手とされたのが、伊藤と同い年の鈴木たまよ。宮崎あおいや多部未華子、松岡茉優らが顔を揃える俳優事務所に所属する女優で、主演作はなくともNHKの朝ドラ『わろてんか』をはじめ多くのドラマにも出演。4月20日放送の『悪女』(日本テレビ系)第2話にも登場した有望株と言えよう。 前出の芸能デスクが、蓬莱氏と鈴木の“浮気”デートの一部始終を解説する。 「文春報道によると、2人は韓国料理店で待ち合わせ。当初こそ鈴木さんに演技指導をしていたものの、お酒が進んで“オトナトーク”で盛り上がると、そのまま蓬莱さんは彼女の自宅マンションに入っていった、とあります。 記事をそのまま受け取れば、“オトナの関係”にあることは容易に想像できます。一方で、“関係者の話”として他にも関係する女性がいた、との記述もあります」 同誌の取材に対し、“彼女は長年にわたる友人で、この日の出来事を全て伊藤も承知している”などとして、「(男女関係は)ない」と明言した蓬莱氏。そして合わせるように《お2人が友人なのは知っています》と、“二股”疑惑を否定する伊藤だった。  

【驚愕】寺尾聰がすでに亡くなっていた真相…台湾人女優と離婚した壮絶な内容に一同驚愕!!「ルビーの指環」で人気を博した歌手俳優が激痩せして苦しんだ難病・巨額の借金の最後とは

【驚愕】寺尾聰がすでに亡くなっていた真相…台湾人女優と離婚した壮絶な内容に一同驚愕!!「ルビーの指環」で人気を博した歌手俳優が激痩せして苦しんだ難病・巨額の借金の最後とは 日本のエンターテインメント界で活躍した寺尾聰さんが、既に亡くなっていたことが明らかになり、多くのファンが驚愕しています。寺尾さんは「ルビーの指環」のヒットで知られるシンガーソングライターであり、俳優としても幅広く活躍していました。 1947年に神奈川県で生まれた寺尾さんは、高校を中退後、音楽活動を開始。1965年にはフォークグループ「ザ・サベージ」を結成し、1966年にはデビュー。1981年にリリースした「ルビーの指環」は、オリコンランキングで1位を獲得し、その名を広めました。しかし、表舞台での成功とは裏腹に、彼の人生は波乱に満ちていました。 29歳の時、突如として重い病に襲われ、胃の80%を切除する手術を受けることに。これにより体重は20kg以上減少し、長い間仕事ができない状態が続きました。さらに、1982年には所属していた石原プロモーションを脱退し、波紋を呼びました。寺尾さんはこの脱退を「喧嘩別れではない」と強調し、心情を吐露しました。   私生活でも、台湾人女優の半分弱さんとの結婚生活は短命に終わりました。1974年にわずか1年5ヶ月で離婚し、その理由は明らかにされていません。寺尾さんはその後、再婚し、再び芸能界での活動を続けますが、半分弱さんは2002年に癌で亡くなりました。   寺尾さんの人生は、多くの困難や葛藤に満ちていましたが、彼の音楽と演技は今でも多くの人々に愛され続けています。彼の死去についての詳細は未だ不明ですが、彼の遺した足跡は今後も語り継がれることでしょう。