トシちゃんとの“ハワイ逃避行”
【前後編の後編/前編からの続き】「部屋を見回しても美穂の姿が見当たらず…」 中山美穂さんの事務所社長らが明かす発見時の様子と、デビュー当時の純朴な素顔
あまりにも突然の報せだった。女優・中山美穂さんの死。14歳でドラマに初出演、スターダムへと駆け上がった。「月9」でヒロイン役を演じること歴代最多。時代を彩ったスターの来し方を振り返る。
前編【「部屋を見回しても美穂の姿が見当たらず…」 中山美穂さんの事務所社長らが明かす発見時の様子と、デビュー当時の純朴な素顔】では、第一発見者となった事務所社長が明かした当日の模様や、彼女を古くから知る人物たちに聞いた、中山さんの素顔について報じた。
一方で、プライベートでは数々の有名人との熱愛が報じられた。
とくに、人気絶頂だったジャニーズ事務所のトシちゃんこと、9歳年上の田原俊彦との熱愛は、芸能史に残るスキャンダルだ。
芸能デスクが言う。
「1989年に“半同棲”をフォーカスされて以降、たびたびツーショットを撮られた二人ですが、思い起こされるのは婚前旅行かと騒ぎになった“ハワイ逃避行”。91年1月3日、二人のハワイ行きを察知したマスコミが、東京都港区の田原の自宅マンション前に集合した。彼はピースサインを作るなど余裕の表情を見せながら、中山をポルシェに乗せて成田空港に向かったのです」
「上手にやってくれさえすればよかった」
二人とも所属事務所には渡航の件を知らせておらず、
「ジャニーズもバーニングも頭を抱えました。当然、周囲は交際に反対しましたが、二人はかえって燃え上がってしまった」(前出・芸能デスク)
当時、彼女のマネージャーだった鈴木氏(中山さんの所属事務所で、バーニングプロダクション傘下の「ビッグアップル」社長の鈴木伸佳氏)は、
「今と違って、アイドルの熱愛スキャンダルは死活問題。週刊誌に撮られてはいけないので大変でしたよ。テレビ局で生の歌番組が終わって、局から事務所の車を出すと、雑誌社のバイクが3台、車が2台くらい追いかけてくるんですから」
そう苦笑しながらも、
「ただ、自分はトシちゃんとの交際自体には反対ではありませんでした。派手に振る舞えば週刊誌に書かれてしまいますが、上手にやってくれさえすればよかったんです。彼女は結婚を望んでいたと思いますよ」
交際は6年で破局を迎えた。
「最終的には彼女が仕事を選び、別れを切り出した」(前出・芸能デスク)
「事実上、仕事から干される形に」
以降、作曲家やスタイリストらとの恋も話題になったが、長続きしたのは作家の辻仁成氏(65)だった。
「二人の交際のきっかけは2001年11月、月刊誌での対談です。一気に急接近し、翌年1月にはフランス・パリでのデート姿が目撃されています」(前出・芸能デスク)
02年3月、写真誌が京都の老舗旅館での密会を報じた。そして、その3カ月後の6月3日に結婚を発表。交際約半年でのスピード婚だった。
「彼女は婚姻届を出すにあたって、事務所に一切の了承を取らなかった。当然、バーニングの周防郁雄(すほういくお)社長は激怒。彼女は辻原作の映画『サヨナライツカ』での主演が決まっていたのに、その撮影もストップ。不義理をしたことから事実上、仕事から干される形になったのです」(同)
離婚、新恋人とも破局……
日本での芸能活動を一時休止し、パリに移住。04年1月には長男を出産した。以降、単発の仕事を除き、半休眠状態に。しかし結婚から12年後、再び彼女の周囲が騒がしくなる。
「14年3月、スポーツ紙が『中山美穂 辻仁成と離婚へ』と報じました。辻氏の“中性化”が離婚原因だと報じるメディアもあったのですが、その年の5月、女性誌が彼女と音楽家・渋谷慶一郎氏との熱愛を報じた。彼女は前年から、渋谷氏と交際関係にあったのです」(前出・芸能デスク)
14年7月8日、辻氏との協議離婚が成立。辻氏が親権を持つことになったのは、彼女が渋谷氏を選んだから。だが、それも長くは続かなかった。翌年、渋谷氏とも破局してしまうのである。
ようやく仕事、プレイべートともに充実
仕事とパートナーを失っただけでなく、知人によると「子供とも会えない状態」が続き、孤立しかけていた彼女。頼ったのは、10年以上前に大迷惑をかけたバーニングだった。
「実は彼女の自宅ビルは、バーニンググループのバーニングパブリッシャーズの所有です。帰国後、渋谷氏の住まいで同棲を続けていた彼女を心配し、バーニングの幹部が部屋を用意したと聞いています。家賃は、彼女に入る印税と相殺する形を取っているので、無償ではありません。その幹部は、彼女が方々の業界関係者に頭を下げる機会も調整したそうです」(前出・芸能デスク)
近年、彼女は歌や芝居に改めて精力的に取り組めるようになっていた。一方、事務所公認でベーシストの男性との交際が始まり、プライベートも充実していた。
「現場では誰かと喋るというより、撮影に備えていた」
最後の出演映画となった「死刑にいたる病」の白石和彌監督が語る。
「中山さんは僕が映画監督になる前からトップアイドル。その頃からずっと大好きでした。彼女が演じたのは、消え入りそうな母親の役。現場では誰かと喋るというよりは、そのシーンの撮影に備えて、じっと演技を考えておられた。特別な存在でした。また機会があれば作品に出てもらって、一緒にやりたいなと思っていたのですが……」
新作に触れる機会は、永遠に失われてしまった。
前編【「部屋を見回しても美穂の姿が見当たらず…」 中山美穂さんの事務所社長らが明かす発見時の様子と、デビュー当時の純朴な素顔】では、第一発見者となった事務所社長が明かした当日の模様や、彼女を古くから知る人物たちに聞いた、中山さんの素顔について報じている。
「週刊新潮」2024年12月19日号 掲載