「母の遺骨、必ず兄に」 寺越武志さん妹、北國新聞社に手記 日朝に翻弄、親子の苦悩つづる
●豪雨で捜索の姿 61年前の友枝さん重なる 生涯を掛けて息子に注いだ深い愛、親子の苦悩がつづられていた。1963年に日本海で行方不明になり、北朝鮮で暮らす寺越武志さん(75)=志賀町出身=の妹(72)=金沢市=が30日までに、今年2月に92歳で亡くなった母友枝さんの思いを代弁した手記を北國新聞社に寄せた。日朝のはざまで翻弄(ほんろう)されながらも、わが子に会いに66回もの訪朝を重ねた母。その姿を近くで見てきた妹は「必ず母の遺骨を兄貴の腕に抱かせてあげたい」と訴え、手記を日本政府に提出する予定 63年に亡くなったとされていた武志さんと友枝さんが面会を果たしたのは1987年。13歳の少年だった武志さんは家庭を持ち、親になっていた。それから親子の「空白」を埋めようと、訪朝を重ねた友枝さんの様子を、妹は手記の中で「大きな山、いばらの道をあの小さな体で乗り越えて、大きな川を小さな笹舟で渡り会いに行きました」と表現した。 友枝さんはかつて拉致被害者家族会と活動をともにしたが、武志さんから「お願いだから今ある私の家庭が壊れることはしないで下さい」と伝えられ、「拉致」の言葉を封印。その経緯に触れた上で、「山の高さや海の深さは測ることはできますが、母の愛は測る事はできません」と、母としての思いを貫き通した友枝さんの愛の深さを、こう記した。 北朝鮮で暮らす武志さんの心情についても「母にどれだけ苦労と悲しみを与えたか、兄はその事を考えると胸が締め付けられる思いだったでしょう」と推し量り、「自分の息子が13才で何も知らない土地で暮すことになるとはだれがおもいますか?」と人生を変えた別離に悔しさをにじませた。 手記を書いたきっかけは、9月に奥能登を襲った豪雨。行方不明になった輪島市の少女を捜す家族の姿を報道で見た時だった。武志さんを捜し、来る日も来る日も海岸に通い続けた母と重なって見えたという。 ●もう一度、鴨緑江を 友枝さんの死去後、「もうできるだけ朝鮮の問題には関わらないようにしよう」と心に誓ったというが、「61年前の母の姿が脳裏によみがえってきた」とペンを走らせた。 手記はB5判の便せん4枚。「母の願い もう1度渡りたい『鴨緑江(おうりょくこう)』」というタイトルが付けられている。友枝さんは生前、中国と北朝鮮の国境を流れる川「鴨緑江」を「もう一度渡りたい」と繰り返し、武志さんとの面会を望んでいた。妹は「母の遺骨と一緒に鴨緑江を渡りたい」と訪朝を強く願った。 ★寺越武志さん 13歳だった1963(昭和38)年5月11日、高浜町(現志賀町)の高浜港から叔父の昭二さん=当時(36)、外雄さん=同(24)=とともに出漁し、行方不明となった。船は翌12日に能登沖で漂流しているのが見つかった。死亡したとみられていたが、87年1月、外雄さんから、武志さんと北朝鮮で生存しているとの手紙が家族に届いた。同年9月、訪朝した母友枝さんと24年ぶりに再会。2002年10月に一時帰国した。
韓国・尹大統領の拘束令状を発付 非常戒厳をめぐり【スーパーJチャンネル】(2024年12月31日)
韓国の非常戒厳を巡り、尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領の拘束令状が発付されました。ソウルの大統領公邸前から報告です。 (河村聡記者報告) 道路の向こうの坂を上った先に大統領公邸があります。 弾劾(だんがい)案の可決後、大統領はこの公邸で過ごしているとみられています。 その周辺では連日、大統領支持者らによる集会が続いていて、31日は令状の発付を受け「拘束すべきは大統領ではなく野党代表の方だ」などと訴えています。 非常戒厳に反発し、弾劾や拘束を求める集会に若者の姿が多くあった一方で、こちらの集会は圧倒的に年齢層が高く、20代や30代の姿はほとんどみられません。 男性の割合も多く、強固な保守層が集まっているとみられます。 大統領側の弁護団は「違法な令状請求によるものであり無効だ」として憲法裁判所に効力停止の仮処分を申請するとしています。 捜査当局としてはこれから1週間が身柄拘束の期限となりますが、拘束に踏み切ることになれば集まった支持者らとの衝突も予想されます。 支持者の一人は「きょうは夜になってもここに残るつもりだ」と話していました。 警察も配置されるなか、緊張状態が続くことになりそうです。
2度目離婚の加護亜依、未成年喫煙での解雇を述懐…13年ぶりに再会した事務所会長から受けた粋な言葉も告白
元モーニング娘。のメンバーでタレント・加護亜依が、30日放送のテレビ朝日系『しくじり先生 私みたいになるな年末1時間SP』(午後11時40分)に出演し、「2度の未成年喫煙で大転落しちゃった先生」として授業した。番組側が10年以上オファーして出演が実現。小学6年生の3月にオーディションに合格してグループ入りしてからの生活を振り返り、14歳で家賃月80万円の高級マンションに住んでいたことなどを明かした。 加護は2000年、12歳でモーニング娘。に加入。中学1年生の4月から活動を始め、同期で同年齢の辻希美とともに人気者になり、ミニモニ。などの派生ユニットでも活躍した。当時は無邪気な妹キャラだったが、それも「全て計算してやっていました」と告白した。また、14歳で高額納税者番付に入り、家賃月80万円のマンションに住んでいたことも打ち明けた。そして、04年に16歳でモーニング娘。を卒業。辻のユニット・W(ダブルユー)として活動した。だが、06年2月、18歳で飲食店での喫煙が週刊誌の記事になり、長期の謹慎処分になった。 「同居していた祖母が愛煙家で吸っている姿に憧れていました。なので、最初に吸ったのは祖母のシケモク(吸い殻)。そして、初めて外で吸った時に同じ飲食店に居合わせた記者に撮られました。その後、自分のことを報道するワイドショーを見て、だいぶショックでした。東京の家を引き払って、奈良の実家で謹慎生活をしていました。考えると、メンバーもライバルなので弱みは見せたくなかったし、本音で悩みを話せる人がいませんでした。(辻も)友達ではなく、戦友でした」 そして、活動再開の兆しがあった1年後の07年2月に3度目の喫煙が週刊誌報道で明るみになり、事務所を懲戒解雇になった。当時を振り返り、加護は言った。 「ずっと吸っていなかったのですが、当時、付き合っていた彼と群馬の草津温泉に旅行に行き、『ここなら大丈夫』と彼の車の中で1本もらって吸ったところを撮られました。事務所からは開口一番で『解雇だね』と言われました。ごっちん(後藤真希)は『マジか~』と言っていました」 その後の状況も振り返った。 「ロサンゼルスに逃亡しましたが、芸能活動しかできないと思って歌のレッスンやオーディションを受けました。帰国したら、私を脱がせようとするおじさんがたくさん近づいてきました」 AV出演のオファーもあり、「70%ぐらい挑戦する気持ちはあった」というが、周囲の説得を受けて断るに至った。一方でファンとの触れ合いがなくなったことで、恋愛依存体質になったものの、仕事にも恋愛にも疲れていたという。 人生の転機になったのは、12年に第1子を出産。16年に第2子も出産したことだった。「これまでは自分のことしか考えてこなかった人生だったんですが、子ども出産して育てていくうちに、自分以外の人を愛せるようになりました」。そして、31歳の時にかつて所属した事務所からイベント出演のオファーが届き、13年ぶりに辻とのWが復活。同事務所の会長にあいさつに行くとジョークを込めて「いいよ、1回座れよ。とりあえず、タバコ吸う?」と言われたという。 「これで13年間の思いが溶けました。もう、時効なんだと思いました…」 長女は12歳。自身がモーニング娘。に加入した年齢になったと言い、「私の反面教師でしっかりしています」。そして、まとめでは「自分の後悔に後悔しない」と教訓を伝えた。 「ずっと(喫煙騒動のことを)後悔していて全く前に進めなかった。でも、後悔せずに生きていこうと思えるようになったのは子どもを産んだからです。あきらめずにいれば、再びステージにも立てる。反省しきったら前を向いてもいいんじゃないかなと思います。ここからはしくじらないように生きていこうと思います」 36歳になった加護はこの放送前、インスタグラムを更新。約2年前に2度目の離婚をしたことを明かしており、「子ども達2人と既に新しい生活を始めております。これからも母として、お仕事にも精進して参りますので温かく見守って頂ければ幸いです。今後ともどうぞよろしくお願い致します」と呼びかけている。