【本田圭佑・成田悠輔vs韓国の黒船】16歳で東大合格 医療AI博士が1億円調達ピッチ「俺は成田悠輔レベルの天才」/林修も認めた逸材に本田圭佑も絶句 (リアル投資ドキュメンタリー ANGELS)

韓国出身の医療AI起業家カリス氏が、東京大学に16歳で合格した成田悠輔氏と共演し、注目を集めている。リアル投資ドキュメンタリー「ANGELS」に出演したカリス氏は、「俺は成田悠輔レベルの天才」と自信満々で宣言し、医療版Googleの構築を目指していることを明かした。 カリス氏は、韓国で育ち、医療AI研究の第一人者としての地位を確立しており、早期診断や手術支援を目的としたAI技術の発展に取り組んでいる。今回のプレゼンテーションでは、日本の医療現場の未来を救うために必要なイオ画像データプラットフォームの構築を提案。彼は、医療データの不足が日本の医療崩壊を招く危険性を指摘し、AI学習データの提供によって日本経済を支えられると強調した。 本田圭佑氏は、カリス氏の自信に驚きを隠せず、「この分野でこれだけ自信を持っている起業家は日本ではあまり見かけない」とコメント。成田悠輔氏もそのプレゼン内容に感銘を受けた様子で、カリス氏のビジョンに期待を寄せた。 カリス氏は、医療データの収集における課題についても言及し、病院との提携を進めることで高品質なデータセットを集める計画を明らかにした。さらに、彼はブロックチェーン技術を用いて医療データの保護を行い、プラットフォームのリリースを2023年秋に予定していると述べた。 挑発的な発言とともに登場したカリス氏は、ただの「ビッグマウス」ではなく、実際に医療AIの研究とビジネスにおいて革新をもたらそうとする真剣な姿勢が垣間見える。彼の挑戦が日本の医療界に新たな風を吹き込むことが期待されている。

橋本マナミが生中継番組で喉の不調 ネットの反響受け謝罪「本当に情けなく反省しています」

タレントの橋本マナミが29日、自身のSNSを更新。出演番組で喉の不調があったことを謝罪した。 橋本は同日、フジテレビ系で放送されたG1・東京大賞典の生中継番組に出演したが、喉の炎症により声がかなり掠れており、SNSがざわついていた。 この騒動を受け「喉の不調によりお聞き苦しい声でお伝えしてしまい大変申し訳ございませんでした」と謝罪した橋本。 「数日前から喉の違和感があり疲れが重なった為か、本日起床時より声が全く出ず、一時は出演を諦めたのですが、朝から病院に行き検査や最大限の処置を施して頂き、何とか声が出る程度まで回復させて頂きました。(感染症は陰性です)」と出演の経緯を報告。 また「この番組はとても思い入れのあるお仕事」と強調し「自己管理ができなかったことが本当に情けなく反省しています」「今後は同じ事を繰り返さぬ様、しっかりと自己管理に努め、お仕事をさせて頂ける様に取り組んで参ります」と反省の思いを記した。

織田裕二は打ち解けたが、中山美穂は一人で…プロデューサーが明かす『Love Letter』誕生秘話「二度と映画はやらない!」と言い放った中山は1年後…

「もう二度と映画はやらない!」 1991年春、映画「波の数だけ抱きしめて」の撮影を終えた21歳の中山美穂は、映画のプロデューサーでフジテレビ社員の河井真也氏にこう言い放った。 今年12月6日、中山は渋谷区の自宅で入浴中の事故で帰らぬ人となった。 トップアイドルから大人の女優へシフトする20代前半、中山の2本の映画をプロデュースした12歳上の河井氏が小誌に思い出を語った。 1991年8月、バブル崩壊の年の夏に公開された「波の数だけ抱きしめて」。バブル景気に沸き立つ世相をフィルムに焼き付けた「私をスキーに連れてって」(1987年)「彼女が水着にきがえたら」(1989年)に続く、ホイチョイ・プロダクション三部作の3作目だった。 そのヒロインを演じたのが中山。だが、このキャスティングは当初の予定ではあの女優だった。 「美穂ちゃんは地方での人気がすごい」 「監督の馬場康夫さんは、前作までの2作に主演した原田知世で“知世三部作“にするつもりでした。僕もそのために、1991年の3月~4月という撮影スケジュールを向こうに伝えていたはずだった。でも、彼女のマネージャーが替わり、うまく話が伝わっていなかったのか、『知世は今、音楽活動に力を入れていて、その時期はライブを入れました』と言われてしまった。東宝は既に1991年8月公開と決めてしまっている。東宝とフジが絶対にヒットをと求めているなか、じゃあ中山美穂にしようとなった。 それまでの2作は都市部では強かったんですが、地方では弱かった。美穂ちゃんは地方での人気がすごいと聞いていたので、良い効果が出るんじゃないかと思いました」 千葉の海岸で行われた撮影は、中山にとって辛いものだった。相手役の織田裕二は前作「彼女が水着にきがえたら」から出演しており、旧知のスタッフと打ち解けていた一方で、中山は待ち時間の間、ずっと一人で本を読んで過ごしていたという。 クランクアップ後、長期入院のため撮影に立ち会えなかった河井氏は中山に再会すると、冒頭の「映画はやらない!」の言葉を投げつけられ、こう言われた。 「私はドラマで4時間、5時間、ず~っとそこで待ってるなんてさせられたことはない!」 映画の中身は軽いノリでも、撮影現場は別。ドラマと違って、太陽が出るのをひたすら待つ、ということはザラだったのだ。 その後公開された映画は興収10億円を超え、三部作で最大のヒットに。だが中山の言葉が突き刺さった河井氏は、もう一緒に仕事はできないだろうと思っていた。 ところが。翌年、人気絶頂の中山は河合氏のもとを訪ね、こう言った。 「代表作って言われるものを作ってよ」 中山が河井氏に語った思いとは――。現在配信中の 「週刊文春 電子版」 では、プロデューサーの河井氏が語る、映画『Love Letter』の誕生秘話を掲載している。