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工藤静香 仲良しだった中山美穂さん追悼「誰もが憧れ親しみ持った“あの笑顔”」“同期”深い悲しみ

歌手の工藤静香(54)が8日、スポニチ本紙に追悼のコメントを寄せた。大の仲良しだった“同期”との早すぎる別れに悲痛な胸の内を明かした。

「余りにも突然の訃報に、愕(がく)然としております。皆さまと同じ様に、まだ信じられない気持ちです。ご親族さま、関係者の皆さま、そしてファンの皆さまを思うと胸が苦しくなります。ご親族の皆さま、お悔やみを申し上げます。誰もが憧れ、そして親しみを持った彼女の“あの笑顔”を偲(しの)びつつ中山美穂さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます」

工藤が所属していた「おニャン子クラブ」は、中山さんが歌手デビューした1985年のデビューで、2人は“同期”だった。

工藤がソロデビューし、互いにトップアイドルとして活躍した87年以降、プライベートで2人でドライブに出掛けるほどの仲だった。

2022年のテレビ番組でも、中山さんは当時仲の良かったアイドルを聞かれた際に「工藤静香ちゃん」と即答。「彼女が運転して、横浜の港の見える丘公園に行ったかな」と懐かしそうに振り返っていた。

そんな時代をともに支え合った友人を突然失った工藤のショックは計り知れない。

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12月6日に突然この世を去った中山美穂さん(享年54歳)。訃報から2週間あまりが経過したが、いまも深い悲しみに包まれている。 「所属事務所によれば、死因は入浴中に起きた不慮の事故だったとのことです。12日に家族と事務所関係者のみで葬儀が執り行われ、妹の忍さん(51)は発表した声明のなかで、美穂さんの長男も参列していたことを明かしていました。美穂さんは’14年7月に作家の辻仁成さん(65)と離婚してから、約10年間にわたって愛息と会っていなかったといいます。彼女は生前、“子供に会いたい”と望んでいましたが、まさかこのような形で再会を果たすとは誰しも想像していませんでした……」(芸能プロダクション関係者) そんななか20日には、中山さんのオフィシャルファンクラブ「Langue de Chat」が、’25年3月31日をもってサービス終了することが発表された。公式サイトでは《これまで当ファンクラブを通じ、中山美穂を応援してくださった皆さまとの温かな繋がりは、運営チーム一同の大切な宝物でございます。残りの期間、そしてその後も『Langue de Chat』が皆さまにとって色褪せない思い出となりますことを心より願っております》と、ファンに向けた感謝の気持ちがつづられていた。 いまも中山さんの死を受け入れられないファンも多いなか、“集いの場所”となっているのは中山さんのインスタグラムだ。 中山さんが生前最後に、インスタグラムを更新したのは亡くなる前日の12月5日だった。東京・六本木にある「森美術館」で開催中の展覧会『ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ』を、鑑賞したことを報告していた。 ポストには現在までに1万件ものメッセージが寄せられており、コメント欄では次のような偲ぶ言葉が並んでいる(12月24日18時現在)。 《まだ信じられない、居ないなんて。美穂が大好き、これからもずっと。ミポリン、皆んなが愛してるよ ありがとうございました》 《大好きだよ。たまらないよ。あなたの事は永遠に忘れないよ!》 《さみしいよ。会いたいよ。ショックすぎる。美穂ちゃんは私の青春でした ずっと忘れない。美穂ちゃんありがとう》 「すでに“いいね”の数も6.5万件にのぼっており、こうしたメッセージの他にファン同士でコメントし合う交流も見受けられました。訃報が入った直後は1,400件ほどの書き込みが寄せられていましたが、日に日に増え続けているのです。ファンクラブの閉鎖が発表されただけに、中山さんのインスタグラムアカウントを“残してほしい”と願っているファンも少なくありません。今後どのように取り扱われるかはわかりませんが、アカウントが残された場合は、ファンが中山さんと繋がることができる場所として大切にされていくことでしょう」(WEBメディア記者) 多くの人々に愛された中山さん。その輝きは永遠だろう――。

【速報】死体遺棄事件 遺体の身元判明 行方不明となっていた70代男性と判明 遺族がコメント「そっとしておいていただきたい」 《新潟》

聖籠町の空き家で敷地内の土中から16日に遺体が発見された死体遺棄事件で県警は24日、遺体の身元が判明したと発表しました。 遺体は行方不明届が出されていた新潟市中央区の小杉英雄さん(当時78歳)と判明しました。 死因については捜査中ということです。 警察を通じ遺族がコメントを発表しました。 【遺族コメント】 「今はその事実を受け止められず、信じられない気持ちと、身内を失ったという悲しい気持ちでいっぱいであり、私たち遺族に対しては、そっとしておいていただきたいと思っております。 報道機関の皆様におかれましては私たちの遺族の心情をお察しいただき、自宅周辺も含めて、取材などについては一切お断りしたいと思っておりますので、何とぞ御配慮いただきますようお願い申し上げます。 遺族一同」 死体遺棄事件 事件は12月16日、聖籠町次第浜の空き家の敷地で土の中から身元不明の男性の遺体が見つかったものです。 警察は遺体が行方不明となっている新潟市中央区の70代男性の可能性があるとみて身元の特定を急いでいました。 事件発覚のきっかけはことし10月16日。 男性の自宅の新聞受けに新聞がたまっていると消防から警察へ通報がありました。 10月21日に男性の親族が警察に行方不明届を提出……警察が行方を探す中で12月16日、聖籠町で遺体を発見しました。 事件から1週間経った23日……敷地内の捜査用テントも撤去され、土砂も埋め戻されていました。 関係者への取材で男性の遺体について袋に入れられた状態で埋められていたことや、捜査関係者によると男性が行方不明になった後に男性の口座から多額の現金が引き出されていたことがわかっています。 24日時点で、犯人逮捕には至っていません。進展がない状況に近所の住民には不安が広がっています。

TOKIO・松岡昌宏、「免疫が弱ってきてんのかなあ」4~5年前から患っている病気明かす

TOKIO・松岡昌宏がパーソナリティを務めるラジオ『松岡昌宏の彩り埼先端』(NACK5)。12月22日放送回では、“最近デビューしたもの”を明かす場面があった。 この日、少々鼻声だった松岡。毎年かかっている副鼻腔炎の症状に見舞われているそうで、「毎年1回ね、どっかで起きるんです。今年早かったね、毎年1月か2月に起きるんですけど。今年は12月半ばにきました」とリスナーに報告した。 なんでもウォーキング中、鼻の奥に痛みを感じたといい、「『なんかおかしいな』と思って、そしたら痛くなって。ちょっと鼻水とかが出てきちゃったりとかね」「そして薬を飲むっていう。でもだいぶもう治ってきたんですけど」と症状を報告しつつ、「免疫が弱ってきてんのかなあ。あと、乾燥だよね。寒さの乾燥によってやられるみたいなこともある」と分析。 一度症状が出ると免疫がつくのか、その 「アレルギー性鼻炎を持ってるんで、鼻炎の延長かななんて思ってたんですよ。どうやらそうではなく、1回病院行ったら『副鼻腔炎ですね』って。だからそういう体質なんだなと思いながら。のどもちょっとイガイガしたり」すると、病状を明かした。 TOKIO・松岡昌宏、最近購入した防寒グッズ明かす「いいね〜、温かくて」 そんな松岡は1月11日に誕生日を迎えるが、「もうすぐ48(歳)なんですけど。ついにですね、寒さが年々こたえるようになってきた」とか。 北海道生まれで寒さには強いほうだと思っていたというが、4〜5年くらい前にユニクロの防寒インナー「ヒートテック」を着るようになり、防寒の大切さを実感する中で「ついに昨日ですね、電気シーツというものを購入して」と報告し、「いいね〜、温かくて」と満足げな様子。 松岡は、女性だけでなく男性にも“冷え”は大敵であるということを仕事現場でスタッフたちと話したそうで、「俺は野郎はそんなの関係ないもんだと思って、体を鍛えることによって、逆に免疫とか上がるんじゃないかななんて思ってたんですけど」と今まで間違った認識でいたことを正直に告白。 最近、そうではないと「身をもって経験」したため、「『よし、じゃあ電気(シーツ)に手を出そう』と思って」購入に至り、「昨日はぬくぬくしてましたね」と明かした。 もともとは暖房があまり得意ではなく、「寒い中で温かい布団で寝るのが好き」だったという松岡は、「おそらく年をとってきて、(体の)温度が下がってきてんのかね?」「だから自力で布団が温まんないっていう現象が起きてるのかなっていう気もしました」としみじみ。 さらに、「靴下をちょっと履くだけでもずいぶん冷えは解消される」ということに気付いたそう。眠りにつくまでに暑くなることから、電気シーツの電源を切り、靴下も脱ぐというが、それでも朝方まで温かさが持つため、「なるほど、寝るまでの入り口が大事なんだな」と実感したようだ。 TOKIO・松岡昌宏、「もうそろそろ厳しい」と語ったこととは? なお、現在1月14日スタートの主演ドラマ『家政夫のミタゾノ』第7シーズン(テレビ朝日系)を撮影中の松岡は、ドラマの現場に“電気湯たんぽ”があると明かし、「いいなぁ」と感じていたものの、「家で使おうとか思ってなかった」とか。しかし、電気シーツデビューしたこともあり、「あー、これからどんどんもっともっと、(防寒のために)いろいろ使ってくのかな、なんて思います」としみじみ。 さらに松岡は、「なんかあんの? そういうあったかくなれる、世の中にはやってるものとか」と番組スタッフに質問。起動してすぐに温まる「セラミックヒーター」があると聞くと、「へえ、そうなんだな。なんか“自力で”ってやってきたんだけどな。もうそろそろ自力厳しいのかな」と笑ったのだった。 この日のトークを受け、SNS上では「電気シーツデビューおめでとう(笑) マボちゃん湯たんぽも試して〜」「収録前日はお家でぬくぬくしてたまぼちゃんきゃわ」といった声が寄せられていた。

路線バス暴走 病院で駐車中の車13台と次々に衝突「運転手の意識がはっきりしていない」との情報も 新潟・上越市

新潟県 上越市の県立中央病院で24日、路線バスが暴走し、駐車していた車13台が衝突する事故がありました。この事故でバスの運転手が病院に搬送されましたが、その他のけが人はいないということです。 駐車場の緑地帯に乗り上げて止まっているバス。 道路標識が下敷きになっています。 【カメラマン】「バスにぶつかったとされる乗用車がいまだ駐車場に残されています」 事故があったのは、上越市の県立中央病院のバスのロータリーです。 警察などによりますと24日正午ごろ、頚城自動車の路線バスが駐車していた車など13台に衝突しました。けが人はいませんでした。 「びっくりですよねー。中で聞いていて、あれーなんて思って」 自身の車が被害にあった人は】「事故が起きたのを聞いて自分の車かどうかわからなかったので、自分の車だと分かったんでちょっとびっくりしたぐらいですね」 バスに乗客はおらず、バスを運転していた52歳の男性が病院に搬送されました。 警察への通報時に「運転手の意識がはっきりしていない」との情報があったということです。 頚城自動車によりますと、バスの運転手に持病はなく出勤した際には体調不良などは確認されなかったということです。 警察が事故のいきさつを詳しく調べています。

【早見優】 中山美穂さんを追悼 「信じられない思いと悲しい気持ちでいっぱい」「とても優しい笑顔でお話しされていたのを鮮明に覚えています」

歌手の早見優さんが自身のブログを更新。 6日に亡くなったことがわかった、中山美穂さんを追悼しました。 中山美穂さん 早見優さんは「中山美穂さんの突然のご逝去の報に接し、ただただ信じられない思いと悲しい気持ちでいっぱいです。」と、投稿。 続けて「はにかむような笑顔が愛らしい美穂さん。」「何年も前ですが、お食事をご一緒する機会があり、その時もとても優しい笑顔でお話しされていたのを鮮明に覚えています。」と、綴りました。 そして「もっと遡ると、私がロスに滞在していて、ちょうど日本に帰国した時、美穂ちゃんと入れ違いになったことがありました。」「その時、共通の友人が、『さっきまで優がいたのよ』と話したら、美穂ちゃんがとても嬉しそうに夏色のナンシーを口ずさんでくれたという話を聞きました。」「その光景を思い浮かべると、胸がいっぱいになります。」と、その思いを明かしました。 早見優さんは「ご家族の皆さま、そして美穂さんを愛するファンの皆さまのことを思うと、胸が痛むばかりです。」「心からご冥福をお祈り申し上げます。」と、しています。

大女優・高峰秀子さん。5歳の誕生日に実母が他界、養母からのひどい仕打ち…激動の幼少期

きらびやかな女優業の裏で、養母と親族に搾取されていた不幸な人生を送っていた、昭和の大女優・高峰秀子さん(1924年生まれ享年86)。それを救った脚本家の松山善三さん(1925年生まれ享年91)の愛情物語を、養女として身近で見てきた文筆家の斎藤明美さんが一冊の本『ふたり~救われた女と救った男』にまとめました。ここでは、高峰秀子さんの母との思い出を教えてもらいました。 死に別れた母の顔を知らない高峰秀子さん 2024年は、日本映画史に残る偉大な女優、高峰秀子さんの生誕100年の年に当たります。一世を風靡した映画女優というと、華やかな印象をもつかもしれませんが、じつは学ぶ機会さえ奪われ養母から搾取される不幸な人生を歩んでいました。 そのきっかけとなったのは、故郷の函館での母との死別でした。そのとき、高峰秀子さんはわずか5歳で顔の記憶もないそうです。養女の斎藤明美さんに高峰秀子さんが語ったという、母との思い出を教えてもらいました。 ――単行本『ふたり~救われた女と救った男』の中に出てくる、高峰秀子と松山善三が出逢うまでの年表が圧巻ですね。大スターの高峰秀子さんが、大変な環境のなか、ご苦労された、ということに驚きました。今でいうと養母は「毒親」という言葉が当てはまるのではと思いました。改めて、高峰さんのふたりのお母さまは、どんな方なのでしょうか。 斎藤明美さん(以下、斎藤):高峰の実母・イソは、高峰が5歳になった誕生日に結核のため他界します。高峰が言うには、実母の思い出はひとつだけで、入院している母親を乳母に連れられ訪ねたとき、病室に入って母のもとに駆け寄ろうとしたら、乳母に「結核が伝染ったらいけないから」と止められ、ベッドから少し離れた所で、見舞いにもらっていた生卵に穴を開けてチュウチュウ吸ったこと。それだけだそうです。 ――それは悲しい思い出ですね。そのとき、高峰さんおいくつくらいだったのでしょうか? 斎藤:たぶん4歳くらいの思い出でしょうね。 ――その頃の記憶が鮮明に残っているとは、天才の名に恥じぬ、恐るべき4歳ですね。高峰さんは実母のお顔を知っているのでしょうか。 斎藤:10代の頃、高峰の成城(世田谷区)の家に下宿していた2番目の兄・実が自室で「秀ちゃん、これが僕らのお母さんだよ」と、まさに写真を見せようとしたとき、養母・志げが部屋に入ってきて、いきなりその1枚しかない写真をビリビリに破り捨てたそうです。だから高峰は実母の顔を知らないんです。 ――なんてことでしょうか! 恋しかったであろう母の写真を! 10代の高峰さんはどんなに悲しかったでしょう。想像するだけで、涙が出ます。

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