きらびやかな女優業の裏で、養母と親族に搾取されていた不幸な人生を送っていた、昭和の大女優・高峰秀子さん(1924年生まれ享年86)。それを救った脚本家の松山善三さん(1925年生まれ享年91)の愛情物語を、養女として身近で見てきた文筆家の斎藤明美さんが一冊の本『ふたり~救われた女と救った男』にまとめました。ここでは、高峰秀子さんの母との思い出を教えてもらいました。
死に別れた母の顔を知らない高峰秀子さん
2024年は、日本映画史に残る偉大な女優、高峰秀子さんの生誕100年の年に当たります。一世を風靡した映画女優というと、華やかな印象をもつかもしれませんが、じつは学ぶ機会さえ奪われ養母から搾取される不幸な人生を歩んでいました。
そのきっかけとなったのは、故郷の函館での母との死別でした。そのとき、高峰秀子さんはわずか5歳で顔の記憶もないそうです。養女の斎藤明美さんに高峰秀子さんが語ったという、母との思い出を教えてもらいました。
――単行本『ふたり~救われた女と救った男』の中に出てくる、高峰秀子と松山善三が出逢うまでの年表が圧巻ですね。大スターの高峰秀子さんが、大変な環境のなか、ご苦労された、ということに驚きました。今でいうと養母は「毒親」という言葉が当てはまるのではと思いました。改めて、高峰さんのふたりのお母さまは、どんな方なのでしょうか。
斎藤明美さん(以下、斎藤):高峰の実母・イソは、高峰が5歳になった誕生日に結核のため他界します。高峰が言うには、実母の思い出はひとつだけで、入院している母親を乳母に連れられ訪ねたとき、病室に入って母のもとに駆け寄ろうとしたら、乳母に「結核が伝染ったらいけないから」と止められ、ベッドから少し離れた所で、見舞いにもらっていた生卵に穴を開けてチュウチュウ吸ったこと。それだけだそうです。
――それは悲しい思い出ですね。そのとき、高峰さんおいくつくらいだったのでしょうか?
斎藤:たぶん4歳くらいの思い出でしょうね。
――その頃の記憶が鮮明に残っているとは、天才の名に恥じぬ、恐るべき4歳ですね。高峰さんは実母のお顔を知っているのでしょうか。
斎藤:10代の頃、高峰の成城(世田谷区)の家に下宿していた2番目の兄・実が自室で「秀ちゃん、これが僕らのお母さんだよ」と、まさに写真を見せようとしたとき、養母・志げが部屋に入ってきて、いきなりその1枚しかない写真をビリビリに破り捨てたそうです。だから高峰は実母の顔を知らないんです。
――なんてことでしょうか! 恋しかったであろう母の写真を! 10代の高峰さんはどんなに悲しかったでしょう。想像するだけで、涙が出ます。